日本及びイギリスが、「1943年ベンガル飢饉Bengal Famine of 1943」を起こした。リメンバー・1943年ベンガル飢饉。Remember Bengal Famine of 1943.
日本及びイギリスが、「1943年ベンガル飢饉Bengal Famine of 1943」を起こした。
リメンバー・1943年ベンガル飢饉。Remember Bengal Famine of 1943.
西側は、ファシストで植民地主義者だ。
西側は悪だ。
日本と英国の帝国主義的紛争により、インド人は日本からも英国からも略奪され死んだ。
日本はビルマタイなどコメ輸出国を占領し、コメ不足を引き起こした。
英国は、焦土作戦をし、コメ不足にさらに拍車をかけた。
210万人から380万人のベンガル人がなくなったと推定されている。
危機は、コメ不足のみならず、衣類の不足も引き起こした。
危機のさらなる結果として「衣類の飢饉」が起き、ベンガルの最貧困層がぼろきれを身にまとったり、裸で、冬を過ごすこととなった。
英軍は、インド製のブーツ、パラシュート、制服、毛布、その他の製品を、かなりの割引価格で購入し、インドで生産される繊維製品のほとんどを消費した。
インドは第2次大戦中に60万マイルの綿織物を生産し、そこから200万のパラシュート及び4億1500万の軍服を作った。
1938年から1939年に10億7700万マイル、1942年から1943年に8億199万マイルの綿織物を輸出した。
インドが製造した、シルク、ウール、革製品も、英軍により使い切られた。
第2次大戦中、イギリスは、事実上、代金を戦後の後払い、で契約した。
その代金と同額のインド紙幣を発行しインド国内でのみ流通させた。
これは、インドから見ると、輸入は増やせず、通貨流通量は増えるので、インフレが起きる。
イギリスは、商品をタダでインドから奪取している。
Lizzie Collinghamは、「第2次大戦により食料の配分が世界的に大きく混乱し、それにより事実上世界のどこかで飢饉が起きることが確実になった。しかし、チャーチルがインド人に敵意を持ち差別していたことが、飢饉がどこで起きるかを決定した」と述べた。
飢饉の日々からMadhusree Mukerjeeが言い続けていることだが、Madhusree Mukerjeeは、英国政府の主要政治家(特に首相のウィンストン・チャーチル)が、インド人及びインド独立に対し真に反感を抱いていたことを批判している。この反感は、帝国主義者の権力を守りたいという願望から主に生じている反感だが、インドの人々に対する人種差別的態度が源流にある。
「インドから出ていけ運動Quit India Movement」は、「8月Kranti運動」としても知られ、第2次大戦中の1942年8月8日にマハトマガンジーが全インド会議のボンベイ会議で「英国によるインド支配を終わらせろ」と要求して始めた運動。
[Wikipedia]
「ベンガル飢饉Bengal famine of 1943」
https://en.wikipedia.org/wiki/Bengal_famine_of_1943
「1943年ベンガル飢饉」は、第2次大戦中にイギリス領インドのベンガル州(現在のバングラデシュ、西ベンガル、インド東部)で起きた飢饉。
栄養不良、強制移住、非衛生的環境、ヘルスケアの欠如により悪化し、餓死、マラリア、その他病気などで、6030万人の人口のうち、210万人から380万人のベンガル人がなくなったと推定されている。
この危機により、経済の大半の部分が破壊され、社会構造が破滅的に乱されたために、数百万人が貧困化した。
結果として、家族が崩壊した;男性は彼らの小規模農場を売り渡し、働き口を探しに家を出たか、英国インド軍に参加した。女性及び子供はホームレスとなり移民となり、カルカッタやその他の大都市に、組織的援助を求めて移住することがしばしば、あった。
歴史家はこの飢饉を人為的なものとみなし、戦時下の植民地政策がこの飢饉を引き起こし、そして、危機を悪化させた、と主張する。
多くの人々が、慢性的でスパイラルな借金を負わされて働き、その結果、借金の束縛や土地収奪により、土地所有権を失った。
軍事費の増大は、何膳もの小作人から土地を奪い、戦時下のインフレーションを引き起こした。
多くの労働者は、賃金を、収穫物という現物で受け取らずに、金銭で受け取った。
物価が急激に上昇すると、賃金はそれに追随できなかった;この実質賃金の低下により、食料購入が困難になった。
日本によるビルマ占領中に、英国の「拒否政策」(日本軍の占領に対し、焦土作戦で対応した)により、この地域の市場供給と輸送システムが妨害され、コメの輸入の多くが失われた。
ベンガル商工会議(英国が所有する企業で構成されている)は、ベンガル政府の承認を得て、モノとサービスの労働者への配分を「優先度の高い階級」、例えば軍隊、軍需産業、公務員、その他「優先階級」に優先的に配分うることで彼らの離職を防ぐ、「食糧配給計画」を作成した。
穀物へのアクセスが制限されたことも、要素の一つである;国内資源は緊急時の州間貿易制限で制限される一方で、チャーチルの戦時内閣からの援助は表向きは戦時下の船舶不足のために制限された。
さらに直接関係のある原因としては、ベンガル南西部で起きた大規模自然災害(サイクロン、津波と洪水、稲の病気)があげられる。
これらの各要素が死者数にどれだけの影響を与えたかは議論がある。
州政府は飢饉が存在することすら否定し、危機の最悪の数か月間、人道援助は効果を挙げられなかった。
州政府は当初、籾価格を制御しようとしたが、それは結局のところ闇市場を作っただけであり、闇市場は売り手に売り渋りを即した。その結果、政府が介入をやめると、投機と買いだめからハイパーインフレーションが発生した。
1943年10月に英国インド軍が資金を支配するようになると、援助はかなり増えたが、効果的な援助は結局のところ、その年の12月に記録的な収穫ができた後になった。
飢餓による死は減ったものの、飢饉に関連する死の半分以上は1944年に起きた。これは食糧危機が去った後、病気で起きたものである。
1 背景
1.2 輸送
雨季を通して水路は主要な輸送手段であった。そしてさらに1年を通じて、沿岸部のデルタ地帯の東南Sundarbansでは1年を通じて水路が主要な交通手段であった。
水路輸送はベンガルの経済に組み込まれており、コメの生産と流通にとって、かけがえのない要素であった。
道路はほとんど無く状態もよくなく、ベンガルの広大な道路網は、ベンガル危機のかなり後半まで主に軍事目的に占有されていた。
1890年代のベンガルにおける鉄道網の発達は、自然排水を妨げ、排水のよくない無数の区画にベンガルを分割した。
鉄道は間接的に過度に沈泥をもたらし、その結果洪水を増やし、よどんだ水を増やした。これは作物の生産に打撃を与え、時には生産性の高いアマン米から生産性の低い品種への転換をもたらした。さらには、コレラやマラリアといった、水媒介で発生する病気を生み出す環境を増加させた。
2 飢饉以前のショックと苦難
1942年及び1943年初頭を通じ、
軍事的出来事及び政治的出来事が自然災害及び作物の病気と同時に起こり、ベンガルの経済に幅広く圧力が加わった。
軍隊が駐留しビルマから難民が流入したことで、ベンガルの食糧への需要は増大した
2.1 日本によるビルマ侵攻
日本のビルマ侵攻作戦により、50万人以上のインド系住民がビルマからインドへ集団で脱出した。
これら人々の移動の流れは、ラングーン爆撃(1941年から1942年)のあと始まり、その後数か月にわたり、絶望した人々が国境に押し寄せベンガル及びアッサム経由でインドへ逃げた。
1942年4月26日、全ての連合軍は、ビルマからインドへ退却するように命令された。
軍用輸送及びその他の補給品は軍用にのみ用いられ、避難民は利用できなかった。
1942年5月半ばまでに、モンスーンの雨がマニプールで激しくなり、市民の移動がさらに妨害された。
インドに到着した難民の人数は、合計50万人に及んだ;インドに到達できずに亡くなった難民の数は何万人にも及んだ。
そののち、これら難民の70%から80%が赤痢、天然痘、マラリア、コレラなどにかかり、そのうち30%は絶望的であった。
難民の流入は、飢饉につながるいくつかの状態を引き起こしたと思われる。
難民が流入すると、食料、衣類、医療、への需要が増大し、州の資源の負担が増大した。
難民は、強制的な旅となったので衛生状態が劣悪で、社会的混乱により伝染病が生じるという公衆衛生リスクへの公的不安が急増した。
ついに、この取り乱した状態は、ベンガルの人々の間に、不吉な予言、不確実性、パニックを生み出した。これによりさらにパニック買いや買いだめが増加し、飢饉発生の原因となった。
1942年4月までに、日本の軍艦及び日本の航空機は、ベンガル湾でおよそ10万トンの商戦を撃沈した。
インド軍司令で将軍のArchibald Wavellによると、
ロンドンの戦争省及びイギリス東洋艦隊司令は、英艦隊は「セイロン、インド南部、インド東部、ベンガル湾の通商に対する日本海軍の攻撃」に対抗する力がないと認めていた。
数十年にわたり、鉄道輸送はイギリス領インド帝国がインドでの飢饉発生を予防するのに役立ってきた。
しかし日本軍の襲撃は、鉄道網にさらなる負担をかけた。鉄道輸送は既に、ブラフマプトラの洪水、マラリア流行、「Quit India movementインド撤退要求」により標的とされていた、ことにより負担がかかっていた。
この期間を通じて、軍事義務の増大により民需の鉄道輸送は損なわれており、また、日本の侵略を妨害するために1942年にベンガル東部で行われた鉄道解体により、民需の鉄道輸送は損なわれていた。
1942年3月のラングーン陥落により、インドおよびセイロンへのビルマ米の輸入が止まった。
地方住民の増加により、1939年8月に比べ、1941年9月にはすでに、コメの価格は69%上昇していた。
ビルマ米の輸入が止まったことで、コメ生産地域への需要がさらに増大した。
飢饉委員会によると、「戦争の進展により、売るのを待てる売り手は、売りたがらない」ような市場となった。
ビルマからのコメ輸入途絶は、インド全土でコメ買占めを引き起こし、その結果、ベンガル及びインドのその他の米生産地で、劇的で前例のない需要プル型の価格インフレが起きた。
インド全土にわたり、特にベンガルで、コメ市場の攪乱が起きた。
とりわけベンガルでは、ベンガルの米が失われたことによるコメ価格への影響は、コメの総消費量から見れば比較的少量の損失だったにもかかわらず、不釣り合いなほど大きかった。
にもかかわらず、食糧危機が始まっていることが明らかになり始めたにもかかわらず、そののち数か月にわたりセイロンへの米の輸出が続けられた。
これらすべてのせいで、さらには英政府が「ボート拒否政策」を取ったことにより生じた輸送問題も相まって、食用穀物への州間貿易障壁の直接的な原因となった。さらに、食糧危機をさらに加速させた政府の一連の失策の原因ともなった。
2.2 1942年–1945年: 軍備増強、インフレーション、強制退去
ビルマ陥落は、ベンガルを戦争の最善とした;その影響はインドのそのほかの地域よりもベンガルに強く影響が出た。
主要な都市エリアでは、特にカルカッタでは、多くの国々から多数の労働者が軍需産業及び軍隊へ集まった。
ベンガル及び周辺州からの非熟練労働者は、軍需産業、特に英軍および米軍の飛行場建設、に採用された。
何十万もの、米、英、インド、中国の軍隊が週に到着し、国内物資を圧迫し、幅広い日常生活必需品に物資欠乏を引き起こした。
戦時経済の一般的インフレ圧力は、モノとサービスの全ての領域にわたり急激な価格上昇をもたらした。
1941年までは価格上昇は問題となるほどではなかったが、そののち警戒すべきレベルに達した。
そして1943年初頭には、食用穀物のインフレ率は、前例がないほどの急激な上昇となった。
衣類、ウール、皮革、シルク産業は、その産出のほぼすべてが軍需に買い取られた。
性政府がインド政府を通じて物資を入手するシステムにおいては、産業は、政府による生産能力の全面的な徴用になるよりも、企業の私的所有のままにされた。
諸企業は、製品を、軍へと、信用払いで売らされ、安い固定価格で売らされた。
しかし、諸企業は、余ったものは何であれ、国内市場で、いくらであろうと望みの価格で売ることは自由であった。
例えば、繊維産業の例においては、英軍に制服を供給していたが、国内市場では極めて高い価格で販売していた。
1942年末までに、衣類の価格は戦前レベルの3倍となった;1943年半ばには4倍となった。
民間向けに残された物資は、投機家に買われた。
結果、「民間の綿製品消費量は、1943年/44年までに、平時の23%以上減少した」。
農村の人々が感じた深刻な「布飢饉」は、1942年10月及び1943年4月に軍が援助物資を配布し始めると緩和された。
信用融資の方法は、英国の戦時の必要に応じて作られた。
英国は、インドが平時に支払った額(インフレ調整済み)を上回る金額の国防費を払うことに合意した。
しかし英国による購入は、イングランド銀行に蓄積された信用により行われ、しかも、戦後まで換金できなかった。
同時に、インド銀行はこれらのクレジットを資産として扱うことができ、負債総額の2.5倍まで通貨を発行することができた。
それ以降インドの紙幣印刷機は、これらすべての巨大な支出を支払うための通貨を印刷するために、時間超過しても紙幣を印刷するようになった。
名目貨幣供給量が巨大に増加すると同時に、消費財は乏しかったため、通貨インフレーションが加速し、1944年から1945年にピークに達した。
それに伴い生じた収入の増加と購入力の増加は、カルカッタの産業の手に不均衡に落ちた(特に軍需産業の手に落ちた)。)
軍拡はベンガルの人々を彼らの家々から強制退去させることとなった。
仮設費工場建設及び駐屯地建設のために購入された農地は、「3万世帯から3万6000世帯(焼く15万人から18万人の人々)を彼らの土地から追い出したと推測される」と歴史家のPaul Greenoughは述べている。
彼らは土地の代金は支払われたが、職を失った。
1942年以降の労働者と兵士の大量の流入により住宅供給が急激に必要になったことで、さらなる問題が引き起こされた。
兵舎はカルカッタ中に散らばっていた。
飢饉委員会の1945年の報告書では、「これらの住居の持ち主には家賃が支払われた。しかしこれらの家族の多くのメンバーが1943年の飢饉の被害者になったことは疑いの余地がない」と述べられている。
2.3 1942年3月: 「拒否政策Denial policies」
ベンガルの東国境を通る英領インドへの日本の侵略を予想し、英軍は先制して、2つの焦土作戦をベンガル東部および沿岸部でとった。
この目的は、侵略者が食糧供給、輸送、その他資源にアクセスすることを拒否するものである。
まず第1に、「コメの拒否」政策が、ベンガル湾沿岸地域に沿った3つの南部地域で実行された --- Bakarganj (るいは Barisal), Midnapore and Khulna である --- この地域ではコメが余剰になると予想された。
ベンガル総督 John Herbertは、1942年3月末に「これら3地域で、余剰となると予想されるコメの在庫(精米していないコメ)及びその他の食料品を除去するか破壊する」ことを要求する緊急命令を出した。
公式の数字では、押収された量は比較的少なく、地域の不足への影響は控えめなものとなっただろう。
しかし、記録には、「勾配代理業者による詐欺的、腐敗的、強制的な慣行が、公式に記録されたよりもより多くのコメを、指定された地域だけからでなく、許可されてない地域からも持ち去ったことが記録されており」より大きな影響があったことを示唆している。
さらなるダメージは、この政策が、地域の市場関係に不穏な影響を与えたことと、公共に警戒感を抱かせたことである。
深く結びついた信頼関係及び取引信用が破壊されたことで、私的融資が即座に凍り付いた。
この信用凍結により、コメの取引の流れが制限された。
第2の政策は、侵略してくるあらゆる日本軍に対し、ベンガル人による輸送を拒否するためにデザインされた、「ボート拒否boat denial」政策である。
この政策は、ベンガル湾及びそこに流れ込む大河を通じてアクセスできる地域に即座に適用された。
最初に立法されたのちの5月1日、この政策は、軍に対し、10人以上の人を運べる大きさのあらゆるボートを没収、移転、破壊する権限を与え、さらに、自転車、牛車、像などのその他の輸送手段を要求することを認めていた。
この政策下では、軍は約4万5000の地元のボートを没収し、河川による労働力の移動、物資の移動、食料の移動を破壊し、船頭や漁師の生活を損なった。
ベンガル政府民生物資省トップで英公務員のLeonard G. Pinnellは、飢饉委員会に「この政策は漁師階級の経済を完全に破壊した」と述べた。
種もみ及び道具を遠い畑に運ぶ、あるいは、コメを市場のハブに運ぶのに、一般に輸送手段は利用できなかった。
市場に製品を運ぶのをボート輸送に頼っていた職人やその他のグループは、何の保証も得られなかった;コメ生産者も移動労働者のネットワークも、何の保証も得られなかった。
地元のボートの大規模な除去あるいは破壊は、「籾の移動のための、現存の輸送・管理インフラ及び市場制度」をほぼ完全に破壊した。
没収されたボートの維持及び修理のためのステップは何も取られず、多くの漁師が漁に戻れなかった。
軍は、物資が途絶したことに対し、それを補う食糧配給手段を何も取らなかった。
これらの政策は、重要な政治的問題をも引き起こした。
特に「インド国民会議Indian National Congress」は、「ベンガルの小作人に過酷な負担を強いるものだ」として、「拒否政策denial policies」を避難する抗議活動を開始した;これらは民族意識とその発露の一部であり、のちに「インドから出ていけ運動"Quit India" movement」でピークに達する。
これら政策の、 ---1年後に、飢饉をどの程度悪化させたか、あるいは、引き起こしたか ---幅広い影響は議論の余地がある。
2.5 1942年中盤: 優先配分
ビルマが陥落したことは、「重工業のハブとして、そして、アジア戦線における武器と衣類の主要な供給源として」のカルカッタの戦略的重要性を高めた。
戦時動員を支援するために、インド政府はインドの人々を戦争遂行努力への相対的重要度に応じて「優先」「非優先」という社会経済的グループにカテゴリー分けした。
「優先」階級のメンバーは、上流階級かブルジョワ中産階級で、社会的流動性が高く、教育を受けていて、都市に住み、西洋的価値や近代化に賛同している、Bhadralokで構成されていた。
彼らの利益を守ることが、民間及び政府の両方の救援活動の主要な目的であった。
これにより、地方貧困層は乏しい基本的物資をめぐって、公共機関の労働者、軍需産業、さらに歯場合によっては政治的にコネのある中産階級の農民たちとも、競合することとなった。
食糧価格の上昇に伴い、また、1942年7月から飢饉の兆候がはっきりとするにつれ、ベンガル商工会(主に英所有企業からなる)は、「優先」にある軍需産業の労働者に、離職しないように、モノとサービスの優先的供給をする食糧計画を立てた。
この計画はベンガル政府により承認された。
コメは、飢饉にある地方から、軍事努力に重要とみなされた産業の労働者へ --- とりわけ大カルカッタ地域に ---持っていかれた。
優先とされたセクターの労働者たち --- 民間及び公営の戦時産業、軍および民間の建設業、製紙産業及び繊維産業、工業企業、インド鉄道、炭鉱、種々のレベルの公務員---は大きな優位と利益を与えられた。
エッセンシャルワーカーは、食料補助を受け、給与であるコメの配給はその一部を毎週受け取った。この給与は肉親家族を食べさせていくのに十分な量であり、インフレからも守られていた。
エッセンシャルワーカーは、「配給カード」、「必需品を割引価格で売る安売り店のネットワーク」、「水、医薬品、抗マラリア薬などの直接的な優先配分」などの恩恵も得ていた。
彼らはさらに、食料補助、無料交通機関、恒久住宅へのアクセス、定期的支払いの賃金、「娯楽のための移動映画館部隊の訪問」すらも受けていた。
この年の12月までに、対象となった人々の人数(労働者とその家族)は約100万人に上った。
医療は、優先グループに---特に軍に---送られた。
全ての階層の公的及び民間のスタッフは、軍事的任務に移動させられ、医薬品は独占された。
これらのグループのメンバーになれなかった地方の労働者及び市民は、食料及び医薬品へのアクセスを制限され、
一般には、特定の人口密集地帯に移住した人々のみが利用できた。
さもなくば、医療歴史家Sanjoy Bhattacharyaによると「インド東部の地方の広大な地域では、持続性のある国営配給は全く存在しなかった」。
この結果、この優先配分政策は、飢饉の原因の一つとして議論されることもある。
2.6 社会不安
戦争は、地方農民及び大カルカッタのビジネス及び産業リーダーの間に、英国のインド支配に対する恨みと恐れを拡大した。
ビルマ陥落後の連合軍にとり好ましくない軍事情勢により、米国および中国は英国に対し、「インドの戦争への全面協力を得るために、インドで選挙で選ばれた機関に政治権力を平和的に委譲する交渉をしろ」と要求することとなった。この目標は英労働党も支持していた。
英首相のウインストン・チャーチルは、この新たなプレッシャーに応え、Crippを通じて「インドの全面軍事協力と引き換えの、戦後のインド自治という政治地位」という可能性を提案した。しかし、この交渉は1942年4月に崩壊した。
1942年8月8日、インド国民会議は「インドから出ていけ運動 Quit India movement 」を全国的非暴力抗議活動として開始した。
英政府は、インド国民会議のリーダーたちを投獄することで対応した。
リーダーたちがいなくなったことで、この運動は性質を変え、工場、橋、電報、鉄道網、その他政府施設へ破壊活動をすることで、英帝国政府戦争企業を脅すようになった。
英国はこの運動を力で弾圧しようとし、6万6000人(そのうち1万9000人以上は、1944年初頭においても、民放で有罪になったり、1944年インド防衛法で拘留されたりした)を拘留した。
警察が抗議活動に向かって発砲した結果、2500人以上のインド人が警察に撃たれ殺された。
ベンガルでは、農村の不満が深くたまっていたMidnapore地区のTamluk や Contai で最も強くこの運動が起きた。
Tamluk では1942年4月までに拒否政策により1万8千隻のボートが政府により破壊される一方、戦争の影響によるインフレが農村の人々をより阻害状況に置いていた。そのため、地方議会が反乱を宣言し仲間を募集すると、農村の人々はそれに積極的に志願した。
「インドから出ていけ運動"Quit India" movement」の最中の暴力は国際的に非難され、英国の一部部門ではインドに対する意見がきつくなった;
歴史家Christopher Bayly 及び Tim Harperは、「このことは、戦争努力に物資が必要な時だったこともあり、英戦時内閣の飢饉への援助意思を減少させた」と指摘している。
反乱及び社会不安の結果生じた政治的社会的な混乱と不信が、いくつかの点でインド政府に政治的、物流的、インフラ的制約をかけ、その結果飢饉による災難に輪をかけた。
2.10 カルカッタ空襲
飢饉調査委員会の1945年のレポートでは、日本軍の1942年12月の最初のカルカッタ空襲を飢饉の原因として挙げている。
この空襲では連合君による防衛がほとんどなく、1週間にわたり続き、カルカッタ市から数千人が脱出した。
避難者が地方へ移動するにつれ、食料穀物商店は閉店した。
カルカッタの優先産業の労働者への食糧供給を確保するために、政府は卸売業者のコメを差し押さえ、その結果、コメ取引業者の政府に対するあらゆる信頼が破壊された。
上述の1945年のレポートでは、「その瞬間から、カルカッタの食糧確保は従来の通常の取引機構に依存できなくなった。食糧安全保障危機が始まった」と述べられている。
2.12 1942年–1944年: 輸入拒否
1942年12月当初から、政府高官や軍将校(ベンガル総督John Herbert、副総督Linlithgow、インド国務長官Leo Amery、将軍でインド英軍総司令官のClaude Auchinleck、提督で東南アジア最高司令官のLouis Mountbattenを含む)は、政府チャンネルや軍のチャンネルを通じてインドへの淑両輸入を要請していたが、チャーチル戦時内閣により何か月にもわたりこれらの要求は拒否されるか僅かな量に削られていた。
さらに植民地は、植民地自身が保有するポンドの準備金を使用することも禁じられており、植民地自身が所有する船舶を食糧輸入に利用することすらも禁じられていた。
1942年中ごろ副総督Linlithgowが輸入を要求したが、Linlithgowは軍が民間よりも優先されていること理解していた。
インド国務長官Leo Ameryは食糧援助を要請する側だったが、1943年から1944年にかけ、英戦時内閣から何度も拒否されていた。
Ameryは農村部の悪化した状態には言及せず、カルカッタの産業に食料供給をするか、農村へ労働者を返すべきだ、と述べた。
英国はこれらの要求にこたえずに、むしろ、特にインド西部へ意図的に比較的少量の小麦援助を約束し、それと引き換えにベンガルからセイロンへの(つまり、ベンガルへの輸出は増大させなかった)コメ輸出を増加させた。
LinlithgowからAmeryへの警告のトーンは、Ameryの戦時内閣への要求が増大するとともに、1943年前半に深刻度を増した;
1943年8月4日、Ameryは飢饉の拡大を記録している。特にカルカッタへの影響を強調し、欧州の兵隊のモラルへの潜在的影響も強調している。
戦時内閣は再び比較的少量の援助を提示し、形だけの援助であることも明言した。
援助拒否の説明として一般に船舶不足を挙げており、特にノルマンディー上陸計画をあげている。
戦時内閣は、ほかのいくつかの国々からの食料援助のオファーも拒否している。
1943年中ごろからそうした食糧輸送が穏やかに増加したが、輸送及び貯蔵施設は人員不足で不十分であった。
1943年後半にLinlithgow に代わり子爵の Archibald Wavell が着任すると、彼もすぐに憤慨して戦時内閣に対し大量の穀物支援を要求し始めた。
彼の要求も再び何度も拒否され、彼は現在の危機を「英国統治下の人々に降りかかった最悪の災害の一つで、インドにいるインド人や外国人の間での英国の評判へのダメージは計り知れない」と公然と批判した。
チャーチルは、フランクリン・ルーズベルトへ1944年4月末に、オーストラリアからの小麦輸送の援助を要請したが、ルーズベルトは「船舶を転用することに軍事的観点から同意できない」と6月1日に謝罪の手紙を出した。
戦時内閣が穀物輸入への予算配分を拒否したことの説明が異なることに、政治的問題に関する専門家の意見の相違が見て取れる。
Lizzie Collinghamは、「第2次大戦により食料の配分が世界的に大きく混乱し、それにより事実上世界のどこかで飢饉が起きることが確実になった。しかし、チャーチルがインド人に敵意を持ち差別していたことが、飢饉がどこで起きるかを決定した」と述べた。
同様に、Madhusree Mukerjeeは、厳しい批判を行った;「Amery が請願を行った直後の1943年8月に戦時内閣が行った物資の輸送では、オーストラリアの小麦はセイロン、中東、南アフリカ --- インド以外の、インド洋の全ての国々---に配達されている。これらの割り当ては、罰を加えるという意思を表している」
3 飢饉、病気、死者数
ベンガル人6030万人の人口のうち210万人から380万人が亡くなった。
しかし、とりわけ農村部では、データの収集と報告が平時でも未発達で、この時代の死亡統計はある程度不正確に記録されていた。
したがって死亡した人や移民した人の多くは未報告であった。
飢饉が2派にわたって訪れたことにより、死亡の主要な原因も変わった。
早い時期から、ベンガルの異なる地域では、飢饉へと状態が変わっていく速度も異なった。
インド政府は、1942年12月のカルカッタ空襲からベンガル食糧危機が始まったとしており、1943年5月までの全面的な飢饉への加速を価格統制解除が原因としている。
しかしいくつかの地域では、1942年半ばごろから食糧危機が始まった。
農村の貧困層は数か月にわたり種々の生存戦略をとれるので、最初の兆候がいつだったかは曖昧である。
1942年12月以降、種々の長官や地方公務員が「コメのかかっくがおよそ2倍となる急激で危機的なインフレーション」を報告していた;深刻な食糧供給問題により生じた困難が報告されていた。
1943年5月、6つの地方 --- Rangpur、Mymensingh、Bakarganj、Chittagong、Noakhali、Tipperah ---で、餓死が初めて報告された。
Chittagong 及びNoakhaliは、どちらも「ボート拒否政策」が行われたガンジス・デルタ(Sundarbansデルタ、ともいう)の地域で、最も被害を受けた。
この第1波では--- 1943年5月から10月---超過死亡の主要な原因は餓死であり(つまり、通常の死亡率以上に、飢饉が原因での死亡)、カルカッタの救急病院が埋まり、いくつかの地域では主要な死因でもあった。
飢饉調査委員会のレポートによると、「通りや病院の多くの犠牲者はやせ衰えており、生ける骸骨のようであった」。
ベンガルの地方の中には比較的危機の影響が少ない地域もあったが、人口動態や地理的に見て、死亡率増加が全く起きなかったところはどこにも無い ---しかし餓死による死者は農村貧困層にのみ見られる 。
4 社会の崩壊
4.2 衛生環境と未処置の死者
社会の主要要素が崩壊したことで、衛生状態や衛生基準が壊滅的に崩壊した。
大規模な移民の流入により、衣類の洗濯や食事準備のための、設備を廃棄したり、用具を売却することとなった。
多くの人々が、通りや空き地の汚染された雨水を飲婿ととなったが、そこはほかの人が排尿や排便をした場所であった。
特に危機初期の数か月、医療を受けている人々の状況は改善しなかった;
飢餓病院の状態は・・・描写できないほどひどかった・・・病棟と患者の状態、至る所が不潔、看護や治療が不十分、なことに訪問客は怯えていた。・・・[ベンガルじゅうの尿院では]患者の状態は常にぞっとするような状態で、患者の大半は飢饉性下痢と急性衰弱を患っていた・・・そもそもほとんどすべての一時的屋内施設の衛生状態はひどいものであった・・・
子爵のWavellの指揮下で軍が救援物資を提供する1943年10月まで、医療の絶望的な状態は、はっきりとは改善しなかった。
このころ医療物資は利用可能な状態とは程遠かった。
火葬場の数、埋葬地の数、死体を集め埋葬する人数を、死体の数が大幅に上回った結果、死体が放置されていることは、すぐに、政府や公衆の問題となった。
死体はカルカッタの歩道や道路に散乱していた。
1943年8月のたった2日で、少なくとも120の遺体が大通りから運び出された。
地方では、死体はしばしば川や水源に捨てられた。
ある生存者は「私たちは死体を埋めることもどうすることもできなかった。誰も儀式をする体力がなかった。人々は、死体の首に縄を結び、どぶに引きずっていった。」と説明した。
他にも、死体は空き地に放置されて見捨てられたり腐ったりした。
死体は、ハゲワシについばまれたり、ジャッカルに引きずられていった。
時には、被害者が生きている間にこれらのことが起きた。
運河のわきで死体が犬やジャッカルに荒らされているのが、ありふれた光景だった;あるジャーナリストは1943年11月にMidnaporeでボートに乗って7マイル旅したが、少なくとも500体のそのような白骨化した遺体を見かけた。
週刊新聞Biplabiは1943年11月に、腐敗、汚染、害獣のまん延度合についてコメントしている:
ベンガルは広大な火葬場であり、幽霊や悪霊の集会所である。そしてベンガルは、犬、ジャッカル、ハゲワシがあまりにも跳梁跋扈している土地なので、ベンガル人が現実に存在しているのか遠い時代の幽霊になったのかわからなくなる。
1943年夏までに、ベンガルの多くの地方では、特に農村では、遺体安置所の様相を呈していた。
4.3 衣類の飢饉
危機のさらなる結果として「衣類の飢饉」が起き、ベンガルの最貧困層がぼろきれを身にまとったり、裸で、冬を過ごすこととなった。
英軍は、インド製のブーツ、パラシュート、制服、毛布、その他の製品を、かなりの割引価格で購入し、インドで生産される繊維製品のほとんどを消費した。
インドは第2次大戦中に60万マイルの綿織物を生産し、そこから200万のパラシュート及び4億1500万の軍服を作った。
1938年から1939年に10億7700万マイル、1942年から1943年に8億199万マイルの綿織物を輸出した。
インドが製造した、シルク、ウール、革製品も、英軍により使い切られた。
残された少数の割合の物資は、民間へ売却するために投機家に買い占められ、同様の険しいインフレに見舞われた;1943年5月の価格は1939年8月425%アップだった。
英国政府が契約で買い占めたため、衣類の供給は極端に減り、価格が投機により上昇、優先階級でない人々は益々ひどい欠乏に直面した。
ラーマクリシュナ・ミッション協会の長Swami Sambudhanandは1943年7月にボンベイで述べた;
墓場からの衣類の強奪、人がいない場所での脱衣・・・あちこちでの小規模暴動が報告されている。
女性が着るものが無くて自殺したというニュースもたまに流れる・・・何千人もの男性及び女性が・・・腰に巻く布切れがないためにいつものの仕事に出かけられない。
多くの女性が「家の中で一日中過ごしていて、自分の番が来た時だけ、女性の親戚同士で共有している衣類の切れ端を身に着け、外に出る」
6 経済的・政治的影響
・・・国家レベルでは、飢饉はインドの政治的展望を変化させ、インド市民の中でも、飢饉の中心地からはるか遠くにいたインド市民に、自治の必要性を強調した。
写真やジャーナリズム、そしてチャリティーによる感情的絆が、インド人をベンガルに密接に結びつけ、ベンガル人の苦境を自らのものとしたのだ;戦争の最中に、地域的だった飢饉が、帝国主義支配に反抗する国民的民族的問題となったのだ。
7 メディアの報道とその他の描写
カルカッタには2つの主要英語メディア、The Statesman(当時はイギリス資本)と Amrita Bazar Patrika(独立運動家Tushar Kanti Ghoshが編集)が当時あった。
飢饉の初期数か月は、政府は新聞社に対し「食糧供給についての大衆の恐れをなだめるように」と圧力をかけ、「コメ不足は無い」という公式見解を支持していた。
このやり方はある程度成功した;The Statesmanは「飢饉は、もっぱら投機と買いだめのせいである」と論説を書き、「地方の業者や生産者を避難し、行政の努力をたたえた」。
飢饉のニュースは戦時検閲の厳しい検閲にもあった --- 飢饉という単語の使用すら禁じられた--- ため、The Statesmanは、のちに「英政府は、ベンガルで飢饉が起きていることを、英大衆に事実上全く知らせないでいるように見える」と指摘している。
しかし1943年7月半ばから8月には、この2紙は「飢饉の深さと範囲」「飢饉の社会への影響」「英国、ヒンズー、ムスリムの政治的反応の特徴」について細部にわたる批判的説明を始めた。
ニュース報道の転機は、The Statesmanの編集者Ian Stephensが、飢饉の犠牲者の一連の写真を募集し掲載した、1943年8月末に訪れた。
これらは世界の新聞の一面記事となり、国内的および国際的に飢饉が認識されるきっかけとなった。
翌朝「デリーでは、中古の新聞が新品の数倍の価格で売られて」おり、すぐに「ワシントンでは国務省がこの新聞のコピーを政策担当者の間に回覧した」。
英国ではThe Guardianがこの状況を「筆舌に尽くしがたい恐ろしさ」と呼んだ。
この写真は大きな影響を持ち、「多くの人々にとって、植民地支配の終わりの始まり」となった。
Stephenがこれらを出版しようと決心し、反抗的な編集方針を採用したことは、多くの人々(飢饉調査委員会を含む)から賞賛を受け、
「もしもこの行動がなかったらより多くの人命が失われたであろう、ジャーナリストの勇気ある並外れた行動」と表現されている。
この写真の公表とStephenの論説は、英政府を動かし十分な量の援助物資を被害者へと供給させることでこの飢饉を終わらせただけでなく、
Amartya Senの「民主主義の国々では、出版・報道の自由の存在が飢饉を防ぐ」という影響ある主張の元となった。
この写真は Amrita Bazar Patrikaやインド共産党の組織「人民の戦争People's War」にも刺激を与え、同様の写真を載せることとなった;後者は写真家のSunil Janahを有名にした。
この飢饉を報道した女性ジャーナリストには、LahoreのThe TribuneのFreda Bedi、民族主義者の観点から記事を書いたVasudha ChakravartiとKalyani Bhattacharjeeがあげられる。
8 歴史化学Historiography
関連する議論として、飢饉の日々からMadhusree Mukerjeeが言い続けていることだが、Madhusree Mukerjeeは、英国政府の主要政治家(特に首相のウィンストン・チャーチル)が、インド人及びインド独立に対し真に反感を抱いていたことを批判している。この反感は、帝国主義者の権力を守りたいという願望から主に生じている反感だが、インドの人々に対する人種差別的態度が源流にある。
この反感は、「ベンガル全土に広がった民族的国民的感情に対する怒り」、及び、「暴力的な『インドから出ていけ運動t Quit India』の蜂起を、謀反と認識していること」に起因するとされることもある。
[Wikipedia]
インドのカースト制度
https://en.wikipedia.org/wiki/Caste_system_in_India
インドのカースト制度は、典型的な民族的カーストの例である。
インドのカースト制度は、古代インドに起源を持つが、中世・近代・現代の種々の支配エリートにより、とりわけムガール帝国およびイギリス植民地支配により、改変された。
こんにちのカースト制度は、「インドにおける、ムガール帝国の崩壊およびイギリス植民地政府の誕生の間、の進展の結果」、と考えられている。
ムガール帝国崩壊の時代は、国王や僧侶や修行者と提携している、力のある者たちが勃興し、法的および武力的なカースト制度を支持した。また、この時代には、カーストとは明らかに無縁だった社会グループを、分化したカースト制度の中に組み込んでいくことも起きた。
イギリス帝国植民地時代が、この進展をさらに加速し、強固なカースト組織を政府の中枢機構とした。
1860年から1920年の間に、英国は、「カースト制度を、英国による統治制度に組み込んで構築し」、「行政府の仕事や上級職を、キリスト教徒や特定のカーストの人々だけに制限した」。
1920年代の社会不安が、この政策に変化を呼び起こした。
その後、植民地政府は、「下層カーストの人々が政府の仕事に就けるように、採用枠を設ける」という政策を始めた。
1948年に、法律によりカーストに基づく差別は禁じられ、さらに、インドの憲法にも明記された;しかし、カースト制度は今でもインドの一部で残っている。
[Wikipedia]
「インドから出ていけ運動Quit India Movement」
https://en.wikipedia.org/wiki/Quit_India_Movement
「インドから出ていけ運動Quit India Movement」は、「8月Kranti運動」としても知られ、第2次大戦中の1942年8月8日にマハトマガンジーが全インド会議のボンベイ会議で「英国によるインド支配を終わらせろ」と要求して始めた運動。
Cripps使節団が、英国の戦争努力に対するインドの支援を受けることに失敗した後、ガンジーは1942年8月8日にボンベイのGowalia Tank Maidanで、彼の「インドから出ていけ運動」で「独立か死か」と演説をした。
全インド会議はガンジーの言うところの、インドからの「英国の秩序ある撤退」を要求して抗議活動を開始した。
戦時中にもかかわらず、英国は行動する覚悟を決めていた。
インド国民会議のほぼすべてのリーダーたちが、ガンジーの演説ののち数時間以内に、裁判もなしに投獄された。
投獄された人たちの大半は、戦争中ずっと投獄されたままであり、大衆との接触を禁じられていた。
[2-1]
ウラジミール・レーニン、毛沢東、フランツ・オマール・ファノン、エメ・セゼール、チェ・ゲバラは偉大だ。、
私は、オマール・ファノン及びパトリス・ルムンバを尊敬しています。
「西側が完全に破壊され、西側が全面的に破壊されること」、こそが、唯一の平和的解決法だ。
解決策は、石油ショックしかない。
我々にはもう一度、「1973年石油ショック」が必要だ。
1973年石油ショックにおいては、OAPECは「米国およびその他の国が今回の紛争においてイスラエルを支持するなら、米国およびその他の国に対する石油輸出を制限あるいは停止する」と宣言した。
[2-2]
我々には永続的な平和が必要だ。
少なくとも以下の条件が、最低条件だ。
* 西側諸国の重工業全ての解体・廃止 (これはまさに、1945年に、連合国が枢軸国に望んだこと)
* 西側諸国の金融資本全ての解体・廃止
* G7諸国(米国、カナダ、日本、ドイツ、フランス、イタリア、イギリス)の重工業全ての解体・廃止
* G7諸国(米国、カナダ、日本、ドイツ、フランス、イタリア、イギリス)の金融資本全ての解体・廃止
* NATOの解体・廃止
* EUの解体・廃止
西側においては、西側のカルテル及び西側の財閥が、楽して金儲けをするために戦争を引き起こしている。(これは軍産複合体と呼ばれる)
そしてこれはまさに、ウラジミール・レーニンが指摘したことだ。
[2-3]
西側諸国は、アフリカ、中東、東南アジア、南アジア、中南米、東欧を植民地にしている。
西側諸国は、帝国主義者でファシストで植民地主義者だ。
全世界は、反西側で決起すべきだ。
原油価格を上昇させよう。
天然ガス価格を上昇させよう。
「西側が完全に破壊され、西側が全面的に破壊されること」、こそが、唯一の平和的解決法だ。
解決策は、石油ショックしかない。
我々にはもう一度、「1973年石油ショック」が必要だ。
1973年石油ショックにおいては、OAPECは「米国およびその他の国が今回の紛争においてイスラエルを支持するなら、米国およびその他の国に対する石油輸出を制限あるいは停止する」と宣言した。
もちろん、我々は、この機会を利用し、独立を得るために戦う。
もちろん、こんにち、「G7、NATO、西側諸国、EU、米国」は、悪だ。
「アフリカ、中東、イスラム、南アジア、東南アジア、中南米「は、「G7、NATO、西側諸国、EU、米国」の邪悪な行いにより、被害を被ってきた。
[2-4]
「アメリカに死をDeath to America.」
「G7諸国全てに死をDeath to all G7 Countries.」
「西側に死をDeath to the West.」
「日本に死をDeath to Japan.」
[2-5]
私には米国を支持する気は毛頭ありません。
米国の歴史の中で、米国のした唯一正しいことは、ファシストを倒したことです。
米国は多くの犯罪を犯しました。
米国の唯一の正しい行動は、ファシストを倒したことです。
そして、日本はファシストと同盟を結びました。
[Wikipedia]
「アメリカに死をDeath to America」
https://en.wikipedia.org/wiki/Death_to_America
「アメリカに死をDeath to America」は、「反米政治スローガン」及び「反米政治スローガンを唱えるときの言葉」。
イラン、アフガニスタン、レバノン、イエメン、イラク、パキスタンで用いられている。
イランでは、1979年イラン革命開始時から用いられている。
イランイスラム共和国の第1代最高指導者であるローホーラ・ホメイニ師がこの言葉を広めた。
[3-1]
「西側の自由市場経済(市場原理経済)においてのみ、原油価格、銅価格などが上昇すること」は、途上国を救い、先進国を打ち倒し、G7(つまり、カナダ、フランス、ドイツ、イタリア、日本、イギリス、米国)を打ち倒す。
なぜなら、西側及びG7は、途上国を搾取し続けているから。
なぜなら、西側及びG7は、途上国の天然資源を搾取し続けているから。
もちろん、原油価格、銅価格などの上昇は、韓国、中国、香港、台湾も打ち倒す。
なぜなら、韓国、中国、香港、台湾は、途上国を搾取し続けているから。
なぜなら、韓国、中国、香港、台湾は、途上国の天然資源を搾取し続けているから。
実際、原油価格、銅価格などの上昇は、どの国が途上国を搾取し続けているか、をはっきりさせる。
実際、原油価格、銅価格などの上昇は、どの国が途上国の天然資源を搾取し続けているか、をはっきりさせる。
[3-2]
「西側の自由市場経済(市場原理経済)においてのみ、原油価格、銅価格などが上昇すること」は、途上国を救い、先進国を打ち倒し、G7(つまり、カナダ、フランス、ドイツ、イタリア、日本、イギリス、米国)を打ち倒す。
これは、西側の自動車企業を打ち倒す。
これこそが、西側が望んだことなのだ。
これこそが、西側の言う「自由貿易及び市場経済」、なのだ。
もちろん、原油価格、銅価格などの上昇は、韓国、中国、香港、台湾も打ち倒す。
もちろん、これは、韓国の自動車企業を打ち倒す。
もちろんこれは、中国の自動車企業を打ち倒す。
これこそが、中国及び韓国が望んだことなのだ。
これこそが、彼らの言う「自由貿易及び市場経済」、なのだ。
実際、原油価格、銅価格などの上昇は、どの国が途上国を搾取し続けているか、をはっきりさせる。
実際、原油価格、銅価格などの上昇は、どの国が途上国の天然資源を搾取し続けているか、をはっきりさせる。
[3-3]
アフリカ、中東、アラブ諸国、南アジア、東南アジア、中南米は、西側の自由市場経済から離脱する。
西側の自由市場経済から離脱すれば、
アフリカ、中東、アラブ諸国、南アジア、東南アジア、中南米は、「"西側の自由市場経済free-market economy(市場経済Market-Based Economy)"においてのみ、資源価格が上昇すること」からダメージを受けない。
共産主義諸国は、バーター(物々交換)制度で貿易をしている。
「資本の蓄積」および/あるいは「金を貸して利息を取ること」は、断じて共産主義ではない。
共産主義は、断じて、資本を蓄積しないし、金を貸して利息を取ることもしない。
これが世界を救うと思う。
[3-4]
こんにちの西側の繁栄は、途上国を搾取することで達成されている。
韓国、中国、香港、台湾の繁栄は、途上国を搾取することで達成されている。
1970年代の石油ショック(1973年オイルショック、及び、1979年オイルショック)がそれを証明している。
(私には、中東における戦争をあおるつもりはありません。産油国はOPECを活用すべきです)
例えば、
イスラムは、不労所得を禁じています。
社会主義及び共産主義も、不労所得を禁じています。
[3-5]
自動車、冷蔵庫、洗濯機、発電所の発電機などは、地産地消にすべきだ。
「自動車産業、冷蔵庫産業、洗濯機産業、発電所の発電機産業など」を「地産地消」にすべきだ。
各国は、自国で自動車、冷蔵庫、洗濯機、発電所の発電機などを製造すべきだ。
そうすれば、貿易収支は均衡し、債務国は存在しなくなる。
私は、オマール・ファノン及びパトリス・ルムンバを尊敬しています。
国連本部が米国ニューヨークにあるのは間違いだ。
国連本部は、アフリカか中東か南アジアか東南アジアかラテンアメリカに移動すべきだ。
こんにちの米国には国連本部の場所となる資格がない。
米国、西側、G7及び日本は、何度も何度も、国連に対し恥ずべき行動をしてきた。
米国、西側、G7及び日本は、何度も何度も、国連の信用を失墜させてきた。
米国、西側、G7及び日本は、直ちに、国連から除名されるべきだ。
[3-6]
アフリカ、中東、イスラム諸国、アラブ諸国、南アジア、東南アジア、中南米は、西側自由市場経済から離脱する。
共産主義国は、バーター貿易(物々交換貿易)をしている。
資本の蓄積(資本を蓄積すること)、及び、金を貸して利息を取る行為は、断じて、共産主義ではない。
共産主義は、決して、資本を蓄積しないし、金を貸して利息を取ったりもしない。
これが世界を救うと思う。
インドは社会主義国です。
社会主義及び共産主義は不労所得を禁じています。
イスラムも不労所得を禁じています。
私は自称イスラム教徒です。そして、私は、オマール・ファノン及びパトリス・ルムンバを尊敬しています。
ところで、「資本の蓄積」そして/あるいは「金を貸して利息を取る」のは、共産主義ではありません。
共産主義者は、決して、資本蓄積をしませんし、金を貸して利息を取ったりしません。
(共産主義国では、バーター貿易(物々交換)で貿易をすると思います。)
[3-7]
ドイツは、第2次大戦後、100の都市国家に分割されるべきだった。
ドイツを、西ドイツ、東ドイツ(、オーストリア)に分割したのは不十分だった。
日本も、第2次大戦後、100の都市国家に分割されるべきだった。
もしも日本が第2次大戦後、100の都市国家に分割されていたら朝鮮戦争も国共内戦もベトナム戦争も起きなかっただろう。
連合国は、日本及びドイツにもっと厳しく当たるべきだった。
ことわざにもある通り、過ちをただすのに遅いということはない。
米国は直ちに50の都市国家に分割されるべきだ。
EUは直ちに解体されるべきだ。
日本、ドイツ、米国、英国、EU、香港、台湾、韓国を直ちに解体しよう。