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「1973 Chilean coup d'état1973年チリ・クーデター」こそが、「9.11(セプテンバー・イレブン)」と呼ばれるべきだ。

「1973 Chilean coup d'état1973年チリ・クーデター」こそが、「9.11(セプテンバー・イレブン)」と呼ばれるべきだ。


「1973 Chilean coup d'état1973年チリ・クーデター」こそが、「9.11(セプテンバー・イレブン)」と呼ばれるべきだ。
サルバドール・アジェンデは、チリの医者で社会主義の政治家で、チリの大統領。
サルバドール・アジェンデは、ラテンアメリカ自由民主義体制で、初めて選挙で選出されたマルクス主義者であった。
CIA及び米国の圧力及び陰謀により、チリではクーデターが起き、サルバドール・アジェンデは失脚し死亡した。
1970年9月、米大統領ニクソンは、CIAに対し、「チリのアジェンデ政権は受け入れらない」と伝え、「アジェンデが政権の座に就くことを阻止する、あるいは、アジェンデを現職から追放する」ために1000万ドル使うことを承認した。
CIAの文書は「アジェンデがクーデターで追放されることは、確固とした永続的な政策である」と宣言している。
ヘンリーキッシンジャーの「40人委員会40 Committee」及びCIAは、アジェンデのチリ大統領就任を妨害しようと、「トラックI, Track I」及び「トラックII, Track II」として知られる秘密工作を計画した;トラックIは、いわゆる「議会工作parliamentary trickery」を通じてアジェンデの大統領就任を阻止しようとするものであり、他方で、トラックIIでの構想は、CIAがチリの主要な軍幹部にクーデターを起こすよう説得しようとするものであった。

アジェンデは、米政府に近い組織である「米州機構OAS」の影響を公に拒否した。またアジェンデは、「関税及び貿易に関する一般協定GATT」は強い大国の利益を追及していると考え、拒否した。
他方でアジェンデは、熱心な「国際連合貿易開発会議UANCTAD」の擁護者であった。UNCTADは経済貿易問題を対等な法的立場で交渉できるから、UNCTADはよりふさわしい組織だと考えた。
UNCTADでのスピーチで、アジェンデは「米国、日本、欧州経済共同体EECが、自由貿易の障壁を無くしていこうとしている」ことを批判した。
アジェンデは「貿易を完全に自由化することは、一般特恵関税制度が途上国へもたらす利益を一気に打ち消してしまう」と述べた。

銅は、チリの唯一の最も重要な輸出品である(チリの輸出額のうち半分以上は、この唯一のコモディティ(一次産品)である銅によるものであった)。

チリは「非同盟運動 Non-Aligned Movement」に参加した。
その時まではチリはイデオロギー上の違いにこだわり続けていたのだが、今や、相手国の国際政治体制に関係なく外交関係及び貿易関係を多様化させたのだ。
チリ政府は、ラテンアメリカ諸国2か国(キューバガイアナ)、アフリカ7か国(コンゴ赤道ギニアリビアマダガスカル、ナイジェリア、タンザニア、ザイール)、欧州3か国(アルバニア東ドイツハンガリー)、アジア7か国(アフガニスタンバングラデシュカンボジア北朝鮮、中国、モンゴル、南ベトナム北ベトナム)、と外交関係を設立した。
チリは、上記諸国のどの国とも外交を断絶していない。

アジェンデは、非識字率改善キャンペーンを実施し、労働者の教育機会を拡大した。
アジェンデ政府は、より多くの医者が、地方及び低所得都市部で開業するように、促進した。
アジェンデは農地改革をした。ラティフンディウムは廃止された。
アジェンデは、女性の社会的状態経済的状態を改善した。

ナチドイツの水晶の夜事件のあと、アジェンデは76名の議員とともに、ドイツのファシズムに電報を送り、ユダヤ人虐殺を非難した。

G7 (Group of Seven)及び西側こそが、悪の帝国だ。
G7 (Group of Seven)及び西側こそが、悪の枢軸だ。
G7 (Group of Seven)は、単なる金持ちクラブだ。G7 (Group of Seven)は単に、金持ちな国々のためのクラブに過ぎない。


[1]
[Wikipedia]
「1973 Chilean coup d'état1973年チリ・クーデター」
https://en.wikipedia.org/wiki/1973_Chilean_coup_d%27%C3%A9tat
「1973 Chilean coup d'état1973年チリ・クーデター」は、チリで起きた軍事クーデターであり、「サルバドール・アジェンデ大統領」の「人民連合党Popular Unity」の政府を退陣させたクーデターである。
米大統領ニクソンにより行われた経済戦争とともに、「反対派が支配する議会」と「社会主義者の大統領」との間の「社会不安及び政治的緊張」が長引いたあと、1973年9月11日、将軍アウグスト・ピノチェトにより率いられた軍部の一団がクーデターで権力を握り、文民統治を終わらせた。
クーデターを起こした軍部は「junta(ホンタ,ジャンタ)」を設立し、チリにおけるすべての政治活動を停止し、左翼活動を抑圧した。とりわけ、共産党社会党、「Revolutionary Left Movement (スペイン語: Movimiento de Izquierda Revolucionaria, MIR。革命左翼運動)」を抑圧した。
ニクソン政権は、クーデターが起きるような状況を作ろうと活動しており、junta政権を即座に承認し、juntaが権力を握るのを手助けした。
クーデターに先行して起きた空爆及び地上攻撃の間に、アジェンデ大統領は最後の演説をし、大統領官邸に留まることを誓い、現状の攻撃に対し、国外亡命を選択するという安全な脱出を提案されたが、拒否した。

クーデター前、チリは何十年にもわたって、民主主義の導き手としてもてはやされ、政治の安定をもてはやされていた。チリが、もてはやされていた何十年の間、南米のほかの国は軍事政権や軍事独裁者に苦しめられていた。


[Wikipedia]
「Military junta、ホンタ,ジャンタ」
https://en.wikipedia.org/wiki/Military_junta
現在では、「寡頭政治の軍事独裁者による、権威主義で独裁の形式の政府」を特徴づけるのに用いられる単語である。


[Wikipedia]
サルバドール・アジェンデSalvador Allende」
https://en.wikipedia.org/wiki/Salvador_Allende
「サルバドール・ギジェルモ・アジェンデ・ゴスセンスSalvador Guillermo Allende Gossens」(1908年6月26日–1973年9月11日)が、チリの医者で社会主義の政治家で、チリの大統領を1970年11月3日から、彼の死の1973年9月11日まで務めた。
アジェンデはラテンアメリカ自由民主義体制で、初めて選挙で選出されたマルクス主義者であった。

アジェンデのチリにおける政治への関与は40年近くにも及び、上院議員副大臣、閣僚、などを歴任した。
チリ社会党の設立に尽力し、生涯にわたり献身的なチリ社会党のメンバーであった。

大統領として、主要産業の国有化に努め、教育拡大、労働者階級の生活レベルの改善に努めた。
議会を支配している右翼政党と、アジェンデは衝突した。また、司法ともアジェンデは衝突した。
1973年9月11日、米国CIAに支援されたチリ軍部は、クーデターによりアジェンデを追放しようと行動に移した。
大統領官邸であるモネダ宮殿を兵隊が包囲すると、アジェンデ大統領は「辞任しない」と最後のスピーチで誓った。

アジェンデ大統領の死後、将軍のアウグスト・ピノチェトは権力を文民政権に返すことを拒否し、その後チリは1990年まで軍事政権に支配された。これにより40年以上にわたって途切れなく続いた民主的統治は、終了した。
この軍事政権は、チリ議会を解散し乗っ取り、憲法を停止し、反体制派と疑われる人々を迫害するプログラムを開始した。この「"反体制派と疑われる人々"を迫害するプログラム」により、3095名の民間人が消息不明となったり処刑された。

2 1970年までの政治への関与
ナチドイツの水晶の夜事件のあと、アジェンデは76名の議員とともに、ドイツのファシズムに電報を送り、ユダヤ人虐殺を非難した。

1950年代に、アジェンデはチリ国民健康保険制度を設立する法律を導入した。この法律は、アメリカ大陸で初めて国民健康保険を保証するものであった。

機密解除された文書によると、1962年から1964年の間に、CIAは総額260万ドルを使ってEduardo Freiの選挙を応援し、「アジェンデのFRAP連立政権」から有権者を怯えさせて遠ざけるために300万ドルを使って反アジェンデのプロパガンダを流した。
CIAは、Eduardo Freiが選挙に勝利したのに果たしたCIAの役割を大きな成功とみなしている。

4    大統領
大統領就任すると、アジェンデは「『La vía chilena al socialismo (チリの社会主義への道)』と呼ばれる社会主義プログラムを実践するという選挙公約」を実行し始めた。
このプログラムには、大規模産業(特に、銅の採掘と銀行)の国有化、国営医療保険制度、教育制度(インディアナ州コーコモーの米国教育者Jane A. Hobson-Gonzalezの協力による)、学校及びスラム街の子供たちへの無料の牛乳プログラム、アジェンデの前任者である大統領エドゥアルド・フレイ・モンタルバが既に始めていた土地の収用と再分配(エドゥアルド・フレイ・モンタルバは国営化リストにあったすべての資産のうち5分の1から4分の1を国有化していた)の拡大、も含まれていた。
アジェンデは、「チリの最貧困層の社会経済的福祉を改善」しようともした:「『新たに国営化された企業で、あるいは、公共プロジェクト』雇用を提供する」のが目玉であった。

1970年11月、「先住民の少数民族を教育制度に取り込むために3000名分の奨学金マプチェ族の子供たちに配分され」、「年金及び補助金の支払いが再開され」、「12万人分の集合住宅建設という緊急計画が開始され」、「全てのパートタイム労働者に社会保障に加入する権利が認められ」、「電力価格アップの提案は廃止され」、「キューバとの外交関係が復活し」、「政治犯は恩赦された」。
同年12月には、「パンの価格が固定され」、「以前は無視されていた人々に読み書きスキルを教え医療を提供するためにチリ南部に5万5千人のボランティアが派遣され」、「政府、被雇用者、雇用者の3者からなる給与計画が建てられ、この給与計画では、この3者に平等の立場が与えられ、その給与計画を監督するための中央委員会が設立され」、「"社会計画省の予算委員会"に労働者の代表を送ることを認める合意協定が、統一労働者中央委員会(United Centre of Workers)と調印された」。
「全年齢の労働者(実習生も含む)に対する最低賃金の義務化が設立され」、「妊産婦オヨに7歳から14歳までの子供に対し、無料の牛乳が導入され」、「無料の学校給食が導入され」、「家賃低下が実行され」、「サンティアゴ地下鉄の建設は、近隣労働者の役に立つことを最優先とするように変更された」。

インフレ率は1970年の36.1%から1971年には22.1%に下落した一方で、平均実質賃金は1971年中に22.3%上昇した。
1971年最初の第1四半期に、ブルーワーカー労働者の最低実質賃金は56%上昇し、同時期のホワイトカラーの実質最低賃金は23%上昇したことで、ブルーカラーとホワイトカラーの労働者間の最低賃金の格差は、1970年の49%から1971年の35%まで減少した。

新しい農業大臣のJacques Choncholは、80ヘクタール(約200エーカー)以上の農地は全て没収すると約束した。
この約束は守られ、1972年の終わりまでに80ヘクタールを超える農地は無くなった。
18か月が過ぎる頃には、ラフンディウム(広大な農地)は廃止された。
この農地改革では、3479の所有地が没収された。

特に地方で、アジェンデ政府は、非識字率改善キャンペーンを実施し、大人への教育プログラムを拡大し、労働者の教育機会を拡大した。
1971年から1973年まで、幼稚園、小学校、中等学校、中等教育後の学校教育、全てへの入学者は増大した。
アジェンデ政府は、より多くの医者が地方及び低所得都市部で開業するように促進し、病院、妊産婦用診療所、特に貧困層のための長時間診療している地域診療所を建築して増加した。
低所得地域の衛生環境及び住宅設備の改善も医療費給付を均質化させた。医療政策を民主化するための手段として、病院評議会及び地方医療評議会が地域医療センター内に設立された。

女性の社会的状態経済的状態を改善するために1971年に女性事務局が設立され、公共の選択施設、公共食糧プログラム、デイケアセンター、女性のヘルスケア(特に胎児の検診)に取り組んだ。

社会的支出は劇的に増大し、特に、住居、教育、保健衛生への支出が増大し、富をチリの最貧困層に再分配しようという大きな努力がなされた。
栄養と保健衛生に関する新しい構想及び高い賃金の結果、チリの貧困層の人々は今までになく自力で食事を買い衣類を買えるようになった。

アジェンデの政策の実行は、地主、雇用者、ビジネスマン、運送人協会、幾人かの公務員、専門職の組合からの強い反対にあった。
「外国の多国籍企業及び米国政府」との緊張が高まっていった。

1971年、チリはキューバとの外交関係を再建した。また、「『米州機構Organization of American States』の協定による、キューバと西半球の外交関係設立禁止」に対し、メキシコやカナダとともに、反対した。
その後すぐ、キューバの大統領フィデルカストロはチリに1か月ほど滞在した。
元々は1週間の滞在予定だった;しかしカストロはチリでの滞在を気に入り、1週間また1週間と滞在を伸ばした。

アジェンデ大統領の期間、「白人エリート層」と「アジェンデの改革を支持する貧困層の先住民の子孫」との緊張が高まった。

銅産業が受けた強い打撃により、輸出額が急減した:銅の国際市場の価格はおよそ3分の1になった。
銅は、チリの唯一の最も重要な輸出品である(チリの輸出額のうち半分以上は、この唯一のコモディティ(一次産品)である銅によるものであった)。
銅価格は1970年の66ドルをピークに、1971年及び1972年にはたった48ドル-49ドルとなった。

アジェンデの、キューバへの接近及び急激な社会主義政策(アジェンデの連立内のより急進派のメンバーからの圧力に応じて急激になった部分もある)は、米国政府の恐怖を高めた。
ニクソン政権は、国際組織を通じ経済圧力を行使し続け、また、チリ議会ではアジェンデへの反対派を支援し続けた。
アジェンデが選挙で当選するとすぐに、ニクソンはCIA及び米国務省に「アジェンデ政権に"圧力"を加えるよう」命令した。

5    アジェンデ大統領の間の対外関係
アジェンデ大統領のとき、チリは「非同盟運動 Non-Aligned Movement」に参加した。これは当時のラテンアメリカでは珍しい立場であった。

その時まではチリはイデオロギー上の違いにこだわり続けていたのだが、今や、相手国の国際政治体制に関係なく外交関係及び貿易関係を多様化させたのだ。
チリ政府は、ラテンアメリカ諸国2か国(キューバガイアナ)、アフリカ7か国(コンゴ赤道ギニアリビアマダガスカル、ナイジェリア、タンザニア、ザイール)、欧州3か国(アルバニア東ドイツハンガリー)、アジア7か国(アフガニスタンバングラデシュカンボジア北朝鮮、中国、モンゴル、南ベトナム北ベトナム)、と外交関係を設立した。
チリは、上記諸国のどの国とも外交を断絶していない。

アジェンデは、米政府に近い組織である「米州機構OAS」の影響を公に拒否した。またアジェンデは、「関税及び貿易に関する一般協定GATT」は強い大国の利益を追及していると考え、拒否した。
他方でアジェンデは、熱心な「国際連合貿易開発会議UANCTAD」の擁護者であった。UNCTADは経済貿易問題を対等な法的立場で交渉できるから、UNCTADはよりふさわしい組織だと考えた。
UNCTADでのスピーチで、アジェンデは「米国、日本、欧州経済共同体EECが、自由貿易の障壁を無くしていこうとしている」ことを批判した。
アジェンデは「貿易を完全に自由化することは、一般特恵関税制度が途上国へもたらす利益を一気に打ち消してしまう」と述べた。

5.1    米国の介入
米国のアジェンデに対する敵対行動は、アジェンデがチリ大統領になるよりももっと前の数年前から始まっていた。
機密解除された文書によると、1962年から1964年の間に、CIAは、「アジェンデのFRAP連立政権」から有権者を怯えさせて遠ざけるために300万ドルを使って反アジェンデのプロパガンダを流し、総額260万ドルを使ってEduardo Freiの大統領選挙を応援した。

米政権は、冷戦時代に、共産主義の拡大を阻止することで米国の地政学的な利益を保護したいと考えており、1970年のチリ選挙でアジェンデが勝利するかもしれないという可能性を米政権は災厄だとみなした。
1970年9月、米大統領ニクソンは、CIAに対し、「チリのアジェンデ政権は受け入れらない」と伝え、「アジェンデが政権の座に就くことを阻止する、あるいは、アジェンデを現職から追放する」ために1000万ドル使うことを承認した。
CIAの文書は「アジェンデがクーデターで追放されることは、確固とした永続的な政策である」と宣言している。
ヘンリーキッシンジャーの「40人委員会40 Committee」及びCIAは、アジェンデのチリ大統領就任を妨害しようと、「トラックI, Track I」及び「トラックII, Track II」として知られる秘密工作を計画した;トラックIは、いわゆる「議会工作parliamentary trickery」を通じてアジェンデの大統領就任阻止を追及するものであり、他方で、トラックIIでの構想は、CIAがチリの主要な軍幹部にクーデターを起こすよう説得しようとするものであった。

さらには、「チリ大統領官邸であるモネダ宮殿」を砲撃するのに使われたミサイルは、米国防情報局のエージェントが関与したと指摘する人もいる。

リチャードニクソンが大統領だった間に、米国幹部は、アジェンデの対立候補Jorge Alessandri がいる政党に資金援助し、また、鉱山や輸送部門でのストライキを支援することで、アジェンデの選挙を妨害しようとした。
1970年の選挙後、トラックI作戦では、議会でEduardo Frei Montalvaの党PDCがAlessandriに投票するように、元大統領のEduardo Frei Montalvaを煽った。
この計画では、Alessandriが大統領就任後すぐに辞任し、新たな選挙を呼びかける。
すると、憲法上では、Eduardo Freiがもう一度大統領に立候補でき(チリ憲法では2期連続大統領をすることは禁じられていたが、非連続で多数の期間大統領をすることは許されていた)、その結果アジェンデを破るだろうと予想していた。
しかしチリ議会は、「アジェンデがチリ憲法を尊重し従う、及び、アジェンデの改革は憲法の要素を一切損なわない」という「憲法保障法Statute of Constitutional Guarantees」にアジェンデを署名させるという条件のもと、アジェンデを大統領に選んだ。

トラックIIは、すでにチリ軍部内で行われていた同様の行動がトラックIIを無意味なものとしたため、中止された。

民主党ビルクリントンの大統領第2期目に、CIAはクーデター前にCIAがチリの政治で役割を果たしていたことを認めたが、その関与の程度については議論がある。

アジェンデの政策に反対する内部の人たちはビジネス部門の人が多く、最近公開された米政府文書は「トラックドライバーのストライキを非直接に資金援助した。このストライキがクーデター前にすでにカオスであった経済状態を悪化させた」と認めている。

アジェンデ大統領以前に、チリでもっとも著名な米企業は、アナコンダ及びケネコットという銅企業であり、また、ITT Corporation(International Telephone and Telegraph)という企業であった。
これら銅企業は両社とも、世界最大の地下銅鉱山エルテニエンテのある、チリのアンデス山脈のスウェル市での民間企業による銅生産を拡大することを目標としていた。
米商務省のデータによると、1968年末に、米企業のチリにおける持ち株は9億6400万ドルであった。
アナコンダとケネコットはそのうち28%に達しており、さらにはITTは単一の企業としてはさらに巨額で2億ドルチリに投資していた。
1970年、アジェンデが大統領に選出される以前、ITTはチリの電話企業Chitelcoの70%の株を所有しており、さらにはチリの右翼新聞El Mercurioに出資していた。
2000年に公開されたCIAの文書によると、1970年の選挙前に、資金をどのように安全に手配するかCIAの指導を受けたうえで、ITTはアジェンデの対立候補の保守派Jorge Alessandriに70万ドル資金援助していた。
ITTの社長Harold Geneenはさらに、アジェンデが選挙で敗れるようにCIAに100万ドル提供した。

将軍ピノチェトが権力を握った後、米国務省ヘンリーキッシンジャーは大統領ニクソンに、「米国はやってない(クーデターについて)。しかしそれを助けた。可能な限り最大限その状況を作り上げた」と言った。
クリントン政権下の「チリ機密解除プロジェクト」で最近機密解除された文書によると、米政府とCIAは1970年にアジェンデが大統領に就任する前に即座にアジェンデを追放しようと計画していた(FUBELT計画, Project FUBELT)。
チリに対する米国の介入に関する多くの文書は、いまだに機密扱いである。

7 クーデター
1973年11月初旬、アジェンデは、憲法上の危機を国民投票で乗り切るというアイデアを思い付いた。
この解決法を説明したアジェンデの演説が9月11日に予定されていたが、アジェンデがそれを演説することはかなわなかった。
1973年9月11日に、チリ軍部が将軍アウグスト・ピノチェトの指揮のもと米国及びCIAの資金援助を受け、アジェンデに対しクーデターを起こした。

7.1 死
「我が国の労働者の皆さん、私にはチリとチリの運命に対し信頼があります。裏切りが支配しようとしているこの暗く厳しい時を、いつか他の人が打倒してくれることでしょう。覚えておいてください。遅からず、素晴らしい新たな道が開け、そこで自由な人民がよりよい社会を構築するでしょう。チリ万歳!チリ人民万歳!労働者万歳!」
サルバドールアジェンデ大統領の別れの挨拶。1973年9月11日。

ラ・モネダ(大統領官邸)が占領される直前に、銃撃の音と爆発の音が背景にはっきりと聞こえている中で、アジェンデはチリ人民に最後の別れの挨拶をラジオを通じて行い、自分自身については過去形で語り、チリへの愛とチリの将来への深い信頼を語った。
アジェンデは、「アジェンデにはチリへの責任があるので、容易な選択肢である脱出は取れない」と語り、「アジェンデの言う"裏切り者たち"のプロパガンダの道具とはならない(アジェンデは安全な脱出のオファーを断った)」とも語り、明らかに最後まで戦うつもりであることを示した。

アジェンデは死ぬ前に、フィデルカストロからのプレゼントであるAK-47を抱えた写真を何回かとった。

9    記念碑
ニカラグアには、マナグアの観光港はアジェンデにちなんで名づけられている。サルバドールアジェンデ港は、マナグアダウンタウン近くにある。
トロントの住宅街の通りもアジェンデにちなんで名づけられた。
イギリスエセックス州ハーロウのアジェンデ通りもアジェンデにちなんで名づけられた。
パリ第7区には、チリ大使館の近くに、アジェンデにちなんで名づけられた広場がある。
バルセロナ近くのビラダカンスには、サルバドールアジェンデ広場という、アジェンデにちなんで名づけられた広場がある。
ベルリンの端近くには、アジェンデにちなんで名づけられた通り(サルバドールアジェンデ通り)がある。ほかのドイツの年にもそうした通りがあり、特に東ドイツにあるが、西ドイツにもある。
アジェンデと名付けられた公園がブダペストにある。
ベオグラード近郊のKaraburmaの主要な通りの一つは、アジェンデにちなんで名づけられている。
1984年、ザグレブ近郊のGajniceにアジェンデにささげられた記念碑が建てられた。
OeirasのCaxiasとPaço de Arcosの小教区を結ぶ通りには、アジェンデにちなんだ名がつけられている。
イタリアのLa Speziaにはアジェンデにちなんで名づけられた公園がある。
セクサールド(ハンガリー)には、アジェンデにちなんで名づけられた通りがある。
ブラジルのサンパウロには、アジェンデにちなんで名づけられた広場がある。
ウィーンのドナウパークにはアジェンデの胸像と記念碑がある。


[Wikipedia]
ラティフンディウムLatifundium」
https://en.wikipedia.org/wiki/Latifundium
ラティフンディウムLatifundium」とは非常に広大な私有地の区画である。
ローマの歴史のラティフンディア(ラテン語:latusは広々とした、fundusは農園とか私有地)とは巨大な土地のことであり、輸出目的の穀物、オリーブオイル、ワインの農業に特化した土地のことである。
ラティフンディアは、マグナ・グラエキア、シチリア、エジプト、北アフリカヒスパニア・バエティカの特長である。
ラティフンディアは、古代の工業化された農業に最も近いものであり、それらの経済は奴隷制度に依存していた。

現代の植民地時代には、欧州君主は、部下の奉仕に対し、彼らの帝国で広大な土地を供与することで、しばしば報いた。
植民地の法律により現地の労働力を強制徴用することができたので、こうした土地の供与は、その土地の所有者はとても儲かった。
これら土地の供与は、ファゼンダ(ポルトガル語)あるいはアシエンダ制(スペイン語)と呼ばれたが、外来語として、ポルトガルではラティフンディオ、スペインではラティフンディアスあるいは単にフンデイアスと呼ばれた。

はびこっているラティフンデイア制度を終わらせることを目標とした農地改革は、世界中で、今でも、いくつかの国々で、よくみられる目標である。


[Wikipedia]
G7 (Group of Seven)
https://en.wikipedia.org/wiki/Group_of_Seven
G7 (Group of Seven)は国際政治会議で、カナダ、フランス、ドイツ、イタリア、日本、米国、イギリスからなる。