IbrahimNcongoOmar’s blog

Black Lives Matter! I love political correctness.

日本の乳児死亡率201

[1]
ヨーロッパが受けた衝撃・脅威と要ったらこの3つ。西も東も滅ぼされかかったんだ。歴史が変わるとこだったなwww
あいつらは本物の千年の都だぞw

(1)コンスタンティノープルの陥落
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%AB%E3%81%AE%E9%99%A5%E8%90%BD
コンスタンティノープルの陥落(コンスタンティノープルのかんらく)とは、1453年5月29日、オスマン帝国のメフメト2世によって東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(現イスタンブール)が陥落した事件である。
この事件により東ローマ帝国は滅亡、古代からのローマ帝国は最終的に滅亡した[1]。

http://www.y-history.net/appendix/wh0601-055.html
東ローマ帝国西ローマ帝国滅亡、正統的なローマ帝国を継承することとなったが、その支配する地域はバルカン半島小アジアギリシア人地域であったため次第にローマ的伝統は弱まり、独自の国家形態をとるようになり、またギリシア化が進んだ。
ギリシア正教会 ビザンツ帝国は国教としてローマ帝国からキリスト教を継承したが、ローマ教会と違ったコンスタンティノープル教会を中心にして独自の発展をとげ、ギリシア正教会といわれるようになり
1453年、オスマン帝国のメフメト2世によってコンスタンティノープルは陥落し、千年以上続いたビザンツ帝国が滅亡した。

(2)第一次ウィーン包囲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E5%8C%85%E5%9B%B2
1529年、スレイマン1世率いるオスマン帝国軍が、2ヶ月近くに渡って神聖ローマ帝国皇帝にしてハプスブルク家の当主、オーストリア大公であるカール5世の本拠地ウィーンを取り囲んだ包囲戦

第二次ウィーン包囲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E5%8C%85%E5%9B%B2
、1683年に行われたオスマン帝国による最後の大規模なヨーロッパ進撃作戦である。
オスマン軍はオーストリアの首都にして神聖ローマ皇帝の居城であるウィーンを大軍をもって攻撃したが、拙速な作戦により包囲戦を長期化させ、最後は反オスマン帝国を掲げて結集した中央ヨーロッパ諸国連合軍によって包囲を打ち破られるという惨憺たる敗北に終わり、
この包囲戦を契機にオーストリアポーランドヴェネツィア、ロシアらからなる神聖同盟オスマン帝国は16年間にわたる長い大トルコ戦争に突入した。
その結果、歴史上初めてオスマン帝国がヨーロッパ諸国に大規模な領土の割譲を行った条約として知られる1699年のカルロヴィッツ条約締結に至った。

(3)レパントの海戦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%88%E3%81%AE%E6%B5%B7%E6%88%A6
1571年10月7日にギリシアのコリント湾口のレパント(Lepanto)沖での、オスマン帝国海軍と、教皇・スペイン・ヴェネツィアの連合海軍による海戦である。
スペイン王国は、支配下ジェノヴァやイタリアの諸都市、マルタ騎士団等から最大限の戦力を集めた。
この海戦は西ヨーロッパ史において初めての大海戦でのオスマン軍に対する勝利であり、オスマン帝国の地中海での前進を防ぐのに役立った。


[1]
フィリピン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3
国名のフィリピンは16世紀のスペイン皇太子フェリペからちなんでいる。

フェリペ2世 (スペイン王)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%9A2%E4%B8%96_(%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E7%8E%8B)
ハプスブルク家カスティーリャ王国アラゴン王国(=スペイン)の国王(在位:1556年 - 1598年)。
イングランド女王メアリー1世と結婚期間中、共同統治者としてイングランド王フィリップ1世(Philip I)の称号を有していた。
また1580年からは、フィリペ1世(Filipe I)としてポルトガル国王も兼ねた。
ヨーロッパ、中南米、アジア(フィリピン)に及ぶ大帝国を支配し、地中海の覇権を巡って争ったオスマン帝国を退けて勢力圏を拡大した。
さらにポルトガル国王も兼ね、イベリア半島を統一すると同時にポルトガルが有していた植民地も継承した。その繁栄は「太陽の沈まない国」と形容された。
王家ハプスブルク家
王朝スペイン・ハプスブルク
父親カルロス1世

カール5世 (神聖ローマ皇帝)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB5%E4%B8%96_(%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%9A%87%E5%B8%9D)
神聖ローマ帝国ローマ皇帝ハプスブルク家第3代の皇帝(在位:1519年 - 1556年)、及びスペイン国王(在位:1516年 - 1556年)。
スペイン国王としてはカルロス1世(Carlos I)と呼ばれる[
ハプスブルク帝国の絶頂期に君臨し、その治世は、ヨーロッパ統合を果たしたカール大帝以来の歴史的ヨーロッパ概念の体現者とも言われる。
さらに当時は大航海時代の真っ只中にあったため、「太陽の沈まない国」と称されたようにヨーロッパから新大陸、アジア(フィリピン)に至る世界帝国を築き上げた。


[1]
ネトウヨのこびるアメリカはアメリカの真の姿じゃないって。右も左もアメリカを誹謗中傷している!迷惑だ!アメリカは当時途上国。
ハプスブルグ家は、神聖ローマ帝国皇帝を代々輩出している家
ナポレオンの出来損ないのナポレオン3世ですら、メキシコを侵略して神聖ローマ帝国皇帝の親戚をメキシコ皇帝につけようとした。
本家ナポレオンですら、2回目の嫁は、ハプスブルグ家の女。革命なんて嘘っぱちwルイ16世の嫁マリーアントワネットもハプスブルグ家。

アメリカはイギリス国王から独立したんだぞ。革命を起こして。
革命を起こせた根拠は、一人一票・人権・民主主義は、自明のもので神がくれた権利だから、国王といえども侵害できないから、だ。
税金をかけられ徴兵され選挙権がないから革命を起こし独立戦争をしたんだ。 つまりだ。アメリカで明治維新やったら独立戦争が起きるぞw

[Wikipedia]
ナポレオン3世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B33%E4%B8%96
ナポレオン3世Napoleon III, 1808年4月20日 - 1873年1月9日)は、フランス第二共和政の大統領(在任:1848年 - 1852年)、のちフランス第二帝政の皇帝(在位:1852年 - 1870年)。
ナポレオン・ボナパルトの甥にあたり、1815年のナポレオン失脚後、国外亡命生活と武装蜂起失敗による獄中生活を送ったが
しかしメキシコ出兵の失敗で体制は動揺。

[Wikipedia]
マクシミリアン (メキシコ皇帝)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3_(%E3%83%A1%E3%82%AD%E3%82%B7%E3%82%B3%E7%9A%87%E5%B8%9D)
全名は、フェルディナント・マクシミリアン・ヨーゼフ・マリア・フォン・ハプスブルクロートリンゲン
)。オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟。妻はベルギー国王レオポルド1世の王女シャルロッテ・フォン・ベルギエン。
優れた海軍の軍歴ののち、1864年4月10日、フランスのナポレオン3世と帝政復活を望むメキシコの王党派の支援の下、メキシコ皇帝に即位した。
宗教 キリスト教カトリック教会

[Wikipedia]
ナポレオン・ボナパルト
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%8A%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%88
フランス革命後の混乱を収拾して、軍事独裁政権を樹立した。また、戦勝と婚姻政策によって、イギリス、ロシアとオスマン帝国の領土を除いたヨーロッパ大陸の大半を勢力下に置いた(これら一連の経過をナポレオン戦争という)が、最終的に敗北して失脚した。
配偶者
ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ
マリー・ルイーズ・ドートリッシュ

[Wikipedia]
マリア・ルイーザ (パルマ女公)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%B6_(%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%9E%E5%A5%B3%E5%85%AC)
マリア・ルイーザ(Maria Luisa, 1791年12月12日 - 1847年12月17日)は、神聖ローマ皇帝フランツ2世(オーストリア皇帝フランツ1世)の娘で、フランス皇帝ナポレオン1世の皇后。後にパルマ公国の女公(在位:1814年 - 1847年)。

[Wikipedia]
マリー・アントワネット
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88
フランス国王ルイ16世の王妃。フランス革命中の1793年10月16日に刑死した。
出生 1755年11月2日神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国オーストリア帝国の旗 ハプスブルク君主国、ホーフブルク宮殿

だからアメリカはモンロー主義なの!


[1]
一応言っとくと、コロンブス神聖ローマ帝国の手先でスペインの手先だぞ。アメリカは関係ないからな。
お前ら話を捻じ曲げて伝えるな。そいつはカトリックの守護者だった神聖ローマ帝国の手先だ

アメリカでは今もってネイティブアメリカンの方もアメリカ政府を訴えたければ訴えることは可能なんだぞ。
これは市民の権利で人権だから邪魔はできない。
お前らの日本と一緒にするな。

[1]
[Wikipedia]
テカムセ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AB%E3%83%A0%E3%82%BB
テカムセ、またはテカムシ(Tecumseh / Tecumtha / Tekamthi, 1768年? - 1813年10月5日)は、アメリカインディアンのショーニー族の戦士、または酋長で、白人への植民地抵抗運動のシンボル的人物。


[1]
でもって、リンカーン南北戦争のときに作った船の名前。
[Wikipedia]
USS Tecumseh (1863)
https://en.wikipedia.org/wiki/USS_Tecumseh_(1863)
USS Tecumseh was a Canonicus-class monitor built for the United States Navy during the American Civil War.
Although intended for forthcoming operations against Confederate fortifications guarding Mobile Bay with Rear Admiral David Farragut's West Gulf Blockading Squadron, Tecumseh was temporarily assigned to the James River Flotilla in April 1864.

ただ、アメリカ合衆国は軍事費を減らすべきだし、モンロー主義になるべきだ。そもそもアメリカ軍は元々州兵だ。海外侵略できないようになっていた。


[1]
[Wikipedia]
クリストファー・コロンブス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%96%E3%82%B9
ポルトガル時代
1484年末頃[注 10]、コロンブスポルトガルジョアン2世に航海のための援助を求め
1485年中頃、8年間過ごしたポルトガルに別れを告げる決心をつけた

スペイン時代
カトリック両王への売り込み
コロンブスコルドバイサベル1世とその夫フェルナンド2世(カトリック両王)に謁見した
1492年1月2日に、ムーア人の最後の拠点であったグラナダが陥落したことで、スペインに財政上の余裕ができたことをサンタンヘルは指摘した[20]。元々興味を持っていたイサベル1世はこれで勢いを得てフェルナンド2世を説き伏せ、スペインはついにコロンブスの計画を承認した

サンタ・フェ契約
1492年4月17日、グラナダ郊外のサンタ・フェにて、コロンブスは王室と「サンタフェ契約」を締結した。その内容は、
1.コロンブスは発見された土地の終身提督(アルーランテ)となり、この地位は相続される。
2.コロンブスは発見された土地の副王(ピリレイ)及び総督(ゴベルナドール・ヘネラール)の任に就く。各地の統治者は3名の候補をコロンブスが推挙し、この中から選ばれる。
3.提督領から得られたすべての純益のうち10%はコロンブスの取り分とする。
4.提督領から得られた物品の交易において生じた紛争は、コロンブス裁判権を持つ。
5.コロンブスが今後行う航海において費用の1/8をコロンブスが負担する場合、利益の1/8をコロンブスの取り分とする。


[Wikipedia]
フェルナンド2世 (アラゴン王)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%892%E4%B8%96_(%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%82%B4%E3%83%B3%E7%8E%8B)
1492年1月、グラナダ王国を滅亡させて、約800年にわたるレコンキスタに終止符を打つ。
1496年にはローマ教皇アレクサンデル6世により、この偉業が讃えられ、フェルナンドとイサベルは「カトリック両王」の称号を授けられることになる。

婚姻政策
神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の娘マルグリットを長男フアンの妃に
同じく皇帝の息子ブルゴーニュ公フィリップを次女フアナの婿に、
また、イングランド王ヘンリー7世の長男アーサー王太子を四女カタリーナの婿として
スペイン、オーストリアネーデルラントイングランドのフランス包囲網を形成した
フランスは1494年からイタリア戦争を開始するが、1504年に締結された条約により、フランスはナポリの王位を放棄し、フェルナンドがナポリ王を兼ねることとなった(ナポリ王フェルディナンド3世)。

後継者
フェルナンド2世は、後継者にフアナ女王の長男カルロスを指名して1516年に亡くなった
フランドルで生まれ育ち、スペイン語を理解できなかったカルロス王子に対し、その弟であるフェルナンド王子はスペインで生まれ、祖父フェルナンド2世が手元に置いて養育
カルロスは、フェルナンド2世の有していたアラゴンその他の王位を継承すると共に、カスティーリャの王位も母フアナとの共同統治という形で獲得した。
これらの王位は以後も形式上は別個のものとして存続するが、実質上は「スペイン王位」として1つに統合され、カルロスはスペイン国王カルロス1世と呼ばれることになる。
カルロス1世はさらに1519年には神聖ローマ皇帝に選出されたため、カール5世とも呼ばれることになる。
一方、フェルナンド王子はフェルディナント1世として、兄カルロスの在位中にドイツ王、退位後に神聖ローマ皇帝となり、ハプスブルク家の領土のうちオーストリアを継承した。
また、婚姻によりボヘミアハンガリーなどを獲得してハプスブルク君主国と総称される国家を形成し、オーストリアハプスブルク家(後のハプスブルク=ロートリンゲン家)の祖となった。


[Wikipedia]
フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%881%E4%B8%96_(%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%9A%87%E5%B8%9D)
在位1556年 - 1564年


[Wikipedia]
カール5世 (神聖ローマ皇帝)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB5%E4%B8%96_(%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%9A%87%E5%B8%9D)
在位
1519年 - 1556年(神聖ローマ皇帝
1516年 - 1556年(スペイン王


[1]
ローマ皇帝
http://www.y-history.net/appendix/wh0103-073_1.html
ローマ帝国の支配者。原則は元老院から選出されるが次第に神格化された。

ローマ皇帝の称号
 ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスの最終的な(崩御の時の)正式な肩書きは、
インペラトル(最高司令官)・カエサル・神の子・アウグストゥス・大神祇官コンスル十三回・最高司令官の歓呼二十回・護民官職権行使三十七年目・国父」という恐ろしく長いものであった。
元首(プリンケプス)は称号ではなく、地位を意味する。
肩書きが長すぎるので、元首つまり皇帝に呼びかけるときは最初のインペラトルか、次のカエサルを用いられるようになる。  
「皇帝」を意味する英語のエンペラーはインペラトルに、ドイツ語のカイザーはカエサルに由来する。
本村凌二他『ギリシアとローマ』1997 世界の歴史5 中央公論新社 p.325 などによる>

ローマ皇帝の併存
 ローマ帝国は395年に東西に分裂し、それぞれが皇帝を戴くこととなる。
しかしそれより前、すでに3世紀末のテオドシウス帝の時に四帝分治制(テトラルキア)が採られ、帝国の行政は東西に分割され、それぞれに正帝と副帝がいるという、「帝政国家」には似つかわしくない状態になっていた。
東西分裂はその状態が固定されたに過ぎない。
その後、西ローマ帝国は476年に滅亡し、皇帝もいなくなったが、東ローマ帝国では皇帝位は存続し、7世紀ごろからはビザンツ帝国ビザンツ皇帝といわれるようになる。

中世のローマ皇帝
 東西の皇帝の並立状態を復活させたのが、800年のカールの戴冠であった。
フランク王国カール大帝ローマ皇帝を名乗ることにより、再び地中海世界に皇帝が二人存在することとなった。
もっとも西の皇帝位は安定せず、結局、962年の東フランクのオットー以降は神聖ローマ皇帝といわれるようになる。
こちらはドイツ王に継承されるが、代々の皇帝はローマ皇帝という称号を実質的なものにしようと、イタリア政策に熱中したことはよく知られている。
それは同時にローマに君臨するローマ教皇との激しい叙任権闘争を生み出すこととなった。

皇帝の終わり
 神聖ローマ皇帝の地位は途中選挙制になったりしながら、形式的にはハプスブルク家に継承され、ナポレオン戦争の結果、1806年にフランツ2世が退位して消滅する(そのままオーストリア皇帝となる)。
一方の東ローマ皇帝は、1453年にオスマン帝国によってビザンツ帝国が滅ぼされたため、そこで終わる。
現在に至るまでビザンツ皇帝および皇帝と一体であったギリシア正教会の都であったコンスタンティノープルイスラーム教徒に占領されたままであるが、ロシア皇帝ビザンツ皇帝を継承し、ギリシア正教後晋であるロシア正教の保護者として皇帝ツァーリカエサルのロシア語形)を称した。
しかしそのロシア皇帝も1917年のロシア革命で殺されている。


[10]
ロシアは東ローマ帝国ビザンチン帝国の後継者。 東欧は双頭のワシの紋章を使っている。

それから、アメリカ海軍には、ジョンポールジョーンズの銅像が建っている。
独立戦争で海軍の将軍をし、その後ロシアのエカテリーナ女帝の下で傭兵をした。

ロシアは、神聖ローマ帝国(=西ローマ帝国)じゃなくて東ローマ帝国(=ビザンチン帝国)。
間違えると多分東欧の人は怒るぞ。
まあ、若い人たちは、「何言ってんだ貧乏なのに、名家がなんの役に立つ」って言ってるけど。
ネット見てみろよ。スラブってスレイブの語源だろ、とか言ってるしw
ネット見ると、
「名家が何の役に立つ!カネだろ!」
って世界一の名家であるローマ帝国の子孫たちの若者が叫んでるけどwww


[10]
[Wikipedia]
Byzantine Empire
https://en.wikipedia.org/wiki/Byzantine_Empire
The Byzantine Empire, or Eastern Roman Empire, was the predominantly Greek-speaking continuation of the eastern part of the Roman Empire
during Late Antiquity and the Middle Ages.
Its capital city was Constantinople (modern-day Istanbul), originally founded as Byzantium.
It survived the fragmentation and fall of the Western Roman Empire in the 5th century AD and continued to exist for an additional thousand years
until it fell to the Ottoman Turks in 1453 under the reign of Mehmed the Conqueror.

Constantine XI died without producing an heir, and had Constantinople not fallen he might have been succeeded by the sons of his deceased elder brother,
who were taken into the palace service of Mehmed II after the fall of Constantinople.
Mehmed II and his successors continued to consider themselves heirs to the Roman Empire until the demise of the Ottoman Empire in the early 20th century.
They considered that they had simply shifted its religious basis as Constantine had done before,
and they continued to refer to their conquered Eastern Roman inhabitants (Orthodox Christians) as Rum.
Meanwhile, the Danubian Principalities (whose rulers also considered themselves the heirs of the Eastern Roman Emperors[159]) harboured Orthodox refugees,
including some Byzantine nobles.

At his death, the role of the emperor as a patron of Eastern Orthodoxy was claimed by Ivan III, Grand duke of Muscovy.
He had married Andreas' sister, Sophia Paleologue, whose grandson, Ivan IV, would become the first Tsar of Russia (tsar, or czar, meaning caesar,
is a term traditionally applied by Slavs to the Byzantine Emperors).
Their successors supported the idea that Moscow was the proper heir to Rome and Constantinople.

Following the conquest of Constantinople by the Ottoman Turks in 1453, Sultan Mehmed II took the title "Kaysar-i Rum"
(the Ottoman Turkish equivalent of Caesar of Rome), since he was determined to make the Ottoman Empire the heir of the Eastern Roman Empire.
According to Cameron, regarding themselves as "heirs" of Byzantium, the Ottomans preserved important aspects of its tradition,
which in turn facilitated an "Orthodox revival" during the post-communist period of the Eastern European states.


[Wikipedia]
Double-headed eagle
http://en.wikipedia.org/wiki/Double-headed_eagle
The double-headed eagle is a common symbol in heraldry and vexillology.
It is most commonly associated with the Byzantine Empire, the Holy Roman Empire, the Austrian Empire, the Russian Empire and their successor states.
In Byzantine heraldry, the heads represent the Emperor having authority over both secular and religious matters,
Byzantine emperors were regarded as Christ's viceregent on Earth.
It also signified the dominance of the Byzantine Emperors over both East and West.
In the Holy Roman Empire's heraldry, it represented the church and the state.
Several Eastern European nations adopted it from the Byzantines and continue to use it as their national symbol to this day.


[Wikipedia]
Coat of arms of Russia
http://en.wikipedia.org/wiki/Coat_of_arms_of_Russia

Historical versions
Evolution
The use of the double-headed eagle as a Russian coat of arms goes back to the 15th century.
With the fall of Constantinople and the end of the Byzantine Empire in 1453, the Grand Dukes of Muscovy came to see themselves
as the successors of the Byzantine heritage, a notion reinforced by the marriage of Ivan III to Sophia Paleologue (hence the expression "Third Rome" for Moscow and, by extension, for the whole of Imperial Russia).
Ivan adopted the golden Byzantine double-headed eagle in his seal, first documented in 1472,
marking his direct claim to the Roman imperial heritage and posing as a sovereign equal and rival to the Holy Roman Empire.

Description and usage
The modern arms of Russia were instated by a presidential decree in 1993, and then by a federal law signed by President Vladimir Putin on December 20, 2000.


[Wikipedia]
Sophia Palaiologina
http://en.wikipedia.org/wiki/Sophia_Palaiologina
Zoe Palaiologina, who later changed her name to Sophia Palaiologina, Grand Duchess of Moscow,
was a niece of the last Byzantine emperor Constantine XI and second wife of Ivan III of Russia.
She was also the grandmother of Ivan the Terrible.


[Wikipedia]
John Paul Jones
https://en.wikipedia.org/wiki/John_Paul_Jones
John Paul Jones (July 6, 1747 - July 18, 1792) was a Scottish American sailor and the United States' first well-known naval fighter in the American Revolutionary War.

Career
Revolutionary War command
Ranger attacks the British
After some early successes against British merchant shipping in the Irish Sea, on April 17, 1778,
Jones persuaded his crew to participate in an assault on Whitehaven, the town where his maritime career had begun.

The "John Paul Jones flag" was entered into Dutch records to help Jones avoid charges of piracy when he captured the Serapis under an "unknown flag."
"Paul Jones the Pirate", British caricature

Russian service
At length, this too expired and Jones was left without prospects for active employment, leading him on April 23, 1787
to enter into the service of the Empress Catherine II of Russia, who placed great confidence in Jones, saying: "He will get to Constantinople."
He was granted name as a French subject (Pavel de Zhoves, Paul de Joves).
Jones avowed his intention, however, to preserve the condition of an American citizen and officer.
As a rear admiral aboard the 24-gun flagship Vladimir, he took part in the naval campaign in the Dnieper-Bug Liman
(an arm of the Black Sea, into which flow the Southern Bug and Dnieper rivers) against the Turks, in concert with the Dnieper Flotilla commanded
by Prince Charles of Nassau-Siegen.
Jones (and Nassau-Siegen) repulsed the Ottoman forces from the area, but the jealous intrigues of Nassau-Siegen
(and perhaps Jones's own inaptitude for Imperial politics) turned the Russian commander Prince Grigory Potemkin against Jones[19]
and he was recalled to St. Petersburg for the pretended purpose of being transferred to a command in the North Sea.
On June 8, 1788, Jones was awarded the Order of St. Anne, but he left the following month, an embittered man.

Legacy
On April 24, 1906, Jones's coffin was installed in Bancroft Hall at the United States Naval Academy, Annapolis, Maryland,
following a ceremony in Dahlgren Hall, presided over by President Theodore Roosevelt who gave a lengthy tributary speech.
On January 26, 1913, the Captain's remains were finally re-interred in a magnificent bronze and marble sarcophagus at the Naval Academy Chapel in Annapolis.


[Wikipedia]
Russo-Turkish War (1787-92)
https://en.wikipedia.org/wiki/Russo-Turkish_War_(1787%E2%80%9392)
Commanders and leaders
John Paul Jones



[10]
コンスタンティヌス
http://www.y-history.net/appendix/wh0103-102.html
4世紀初頭のローマ帝国皇帝。帝国の混乱を克服し専制君主政を確立し、キリスト教を公認。コンスタンティノープルに遷都した。
 ローマ帝国皇帝で在位は306~337(副帝時代含む)。ディオクレティアヌス帝の創始した専制君主政を確立したが、一方ではその四分割統治をやめて単一帝政に戻してた。ローマ帝国を再建し、新都コンスタンティノープルを建設した。またキリスト教を公認するという大転換を図ったローマ帝国後期の最も重要な皇帝。


[10]
第1次世界大戦も、西ローマ帝国東ローマ帝国オスマン帝国の戦争。
アメリカは関係ないから。


[Wikipedia]
サラエボ事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%9C%E4%BA%8B%E4%BB%B6
サラエボ事件サラエボじけん、サラエヴォ事件、サライェヴォ事件)とは、1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝・国王の継承者フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィーが、サラエボ(当時オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を視察中、ボスニア出身のボスニアセルビア人(ボスニア語版)の青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件。
この事件がきっかけとなって、第一次世界大戦が開戦した。


[Wikipedia]
フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒエス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%92%EF%BC%9D%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%86
1863年オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟であったカール・ルートヴィヒ大公と両シチリア王フェルディナンド2世の長女マリア・アンヌンツィアータの長男としてグラーツで生まれた


[Wikipedia]
フランツ・ヨーゼフ1世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%951%E4%B8%96
王家
ハプスブルク=ロートリンゲン家


[Wikipedia]
ボスニア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%82%B9%E3%83%8B%E3%82%A2
歴史
オスマン帝国
長年にわたるオスマン帝国による統治が多くの改宗者を生む一方で、ボスニアには正教徒やカトリックキリスト教徒も多く存在し、またユダヤ教徒のコミュニティも存在していた

オーストリアハンガリーによる併合


[Wikipedia]
セルビアの歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%93%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2#.E4.B8.AD.E4.B8.96.E3.82.BB.E3.83.AB.E3.83.93.E3.82.A2.E7.8E.8B.E5.9B.BD
ビザンツ帝国では彼の弟サヴァがセルビア教会のために自治教会の地位の獲得に努力し、1219年にかれはセルビア正教会の大主教になった。こうして、セルビア人は世俗と宗教の両方の独立を獲得した。


[10]
だから今だにドイツとオーストリアの再統合は禁じられてるの。第1次大戦で分断。
ところで、その文脈でいくと、フランスとドイツの統合も禁じておくべき。
というわけで、EUこそが危ない存在。

お前等日本は、ト〇タのカネ儲けのためにEU統合を進めようとしているんだろ。日本は頭がおかしい。
カネ儲けのためにナチを復活させようとしているのが日本。日本こそがイスラムの敵だと思いますがね。
だったら、日本を中国と統合して自由貿易圏を作ったらどうですかねwww自分ができないことを人にやらせるなよ


[10]
私はアメリカ人になるのでアメリカ合衆国の99%を守る
だから、
日本は日本でもっと金融緩和をし、日本をバブル経済にし、日本の内需を拡大し、
日経平均を500万円にし、1ドル500円の円安ドル高にし、日経平均を500万円にし、
日本を軍拡し、日本を競争社会にし、
日本を貿易赤字と経常収支赤字を持つ工業製品を輸入する債務国にしろ
結果として、円安ドル高になる
目安として、1ドル500円になるまで緩和しろ

今すぐ、日本は、日本でのみ、外国人労働者を完全自由化しろ。
今すぐ、日本を多民族国家にしろ。

日本は、今すぐ、日本の金融を緩和し、日本の内需を拡大し、
日本を軍拡し、日本の自動車産業をつぶし、
日本を構造改革し、日本をサービス業・観光・金融で食べていく国にしろ
早く、日本に、ゼネコンや土建事業を復活させろ
日本に、ゼネコンや土建事業が足りないぞ

アメリカはモンロー主義になるのだ。
アメリカ軍を全世界から引き上げよう。

日本は今すぐ滅んだ方が良いのではないかといつも思う。