IbrahimNcongoOmar’s blog

Black Lives Matter! I love political correctness.

日本の乳児死亡率3

[10]
学者や芸術家が貴族の紐だったのは事実
ただそれを最初に打破したのは、工房を作り大量生産し客を市民に広げた
ネロと犬が死んだあれルーベンス
http://www.mmm-ginza.org/special/201304/special02.html

実際庶民と書物の関係で習うだろ。
活版印刷により市民が本を買えるようになった。これが宗教改革につながる。
日本のはまだ瓦版と呼ばれ活版になってない。(1枚の板刷りか、一文字ごとのはんこカの違いね)

当時は資本主義存在してないだろ。
貴族や皇帝が悪党だろ
ロシア革命だって倒した相手は、農奴制のロマノフ王朝だろ

フランダースの犬」の時代は資本主義勃興期だが、
ルーベンスは資本主義がまだ無い時代。

16世紀のスペインとポルトガルが世界を支配していた時代に資本主義があるかよ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%B3%E3%82%B9
ピーテル・パウルルーベンス[1](1577年6月28日 - 1640年5月30日)は、バロック期のフランドルの画家、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%81%AE%E7%8A%AC
フランダースの犬』(フランダースのいぬ、英: A Dog of Flanders)は、
イギリスの作家ウィーダが19世紀に書いた児童文学であり


[10]
ナイチンゲールのあれね。高校の世界史で習うはず。

クリミア戦争
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%9F%E3%82%A2%E6%88%A6%E4%BA%89
クリミア戦争は、1853年から1856年の間、クリミア半島などを舞台として行われた戦争である。

この戦争により後進性が露呈したロシアでは抜本的な内政改革を余儀なくされ、

こうして1856年3月30日にオーストリア帝国プロイセン王国の立会いの下で、パリ条約が成立した。
多くの歴史学者が認めているように、この戦争で産業革命を経験したイギリスとフランス、産業革命を経験していないロシアの国力の差が歴然と証明された。
建艦技術、武器弾薬、輸送手段のどれをとっても、ロシアはイギリスとフランスよりもはるかに遅れをとっていたのである。


世界に冠たる人類史上最強最古の帝国、ローマ帝国である、
東ローマ帝国(=ビザンチン帝国=ロシア帝国)や神聖ローマ帝国
が、新興の勃興国のイギリスに、負けてしまったという話ね。

貴族や皇帝とか身分制度をありがたがり、後進的で、民主主義が無かったから。

イギリスの国王は、神聖ローマ帝国の選帝侯にすぎず、ようは極論すると、神聖ローマ帝国皇帝の子分だぞ。
アメリカはピューリタンモンロー主義だからローマ帝国とは何の関係もないぞ。


[10]
お勉強をしていないか、名家名家言う割には世界の常識を何も知らない。
世間知らずと言うか。
高校で習うと思うんだけど。

君たちの男系制は明治維新で定義されたもので、これをパクッたに過ぎない。

あの、マリーアントワネットの母親な。


マリア・テレジア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%82%A2
マリア・テレジア (独: Maria Theresia, 1717年5月13日 - 1780年11月29日)は、神聖ローマ皇帝カール6世の娘で、
ハプスブルクロートリンゲン朝の同皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者、
オーストリア大公(在位:1740年 - 1780年)、ハンガリー女王(在位:同じ)、
ボヘミア女王(在位:1740年 - 1741年、1743年 - 1780年)で、ハプスブルク君主国の領袖であり、
実質的な「女帝」として知られる(下記参照)。
オーストリアハプスブルク家の男系の最後の君主であり、彼女の次代から、
つまり子供たちの代からが正式に、夫の家名ロートリンゲン(ロレーヌ)との複合姓(二重姓)
ハプスブルク=ロートリンゲン家となる。

大公女時代[編集]
ハプスブルク家の相続問題
それまでハプスブルク家サリカ法に基づく男系相続を定めていた。
しかし、彼女の兄が夭折して以後、カール6世に男子が誕生せず、
成人したのもマリア・テレジアと妹のマリア・アンナ(マリアンネ)のみであったことから後継者問題が表面化してくる。

しかしながら、ロートリンゲン家は第二次ウィーン包囲においてオスマン帝国を敗走せしめた英雄カール5世(シャルル5世)
の末裔であり、ハプスブルク家にとっても深い縁があったことから、カール5世の孫との縁組が決定される

オーストリア継承戦争
相続問題の見通しの甘さはカール6世の崩御後すぐに露呈する。
1740年10月20日、カール6世が崩御すると、国本勅諚の「ハプスブルク家の領地は分割してはならない」を公然と無視し、
周辺諸国は娘の相続を認めず、領土を分割しようと攻め込んできた。
これがオーストリア継承戦争(1740年 - 1748年)である。フランス、スペインの列強のみならず、
プロイセンブランデンブルク選帝侯)、バイエルン選帝侯、ザクセン選帝侯らも叛旗を翻した。
彼女は当時23歳(しかも第4子を妊娠中)で、いかなる政治的教育も受けていなかった。
各国の大使は本国に彼女が無知だと報告したが、英国のみが「毅然とした態度や落ち着きに非凡の才あり」と注意を促した

子女
マリア・アントーニア(1755年 - 1793年) - フランス王ルイ16世







サリカ法
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AA%E3%82%AB%E6%B3%95%E5%85%B8
サリカ法典(サリカほうてん、羅:Lex Salica) は、フランク人サリー支族が建てたフランク王国の法典。
ラテン語で記述されており、編纂にあたってはローマ人の法律家の援助を得たと言われているが、
ローマ法とは異なり、金額が固定された金銭賠償(贖罪金)に関する規定が主であり、
自力救済を原則としていたことにも特色がある。

また、サリカ法の相続条項を拡大解釈して女王及び女系継承を禁じたフランス王国の王位継承法と、
それに準じた他国の相続方式も、しばしば便宜的にサリカ法と呼ばれる。

概要
原型が成立したのはフランク王国メロヴィング朝の初代の王クローヴィスの晩年に当たる6世紀の初頭と考えられ、
今日では8世紀後半以降の写本が伝わる。
サリー人のゲルマン慣習法に、ブルグント族法典のような他のゲルマン部族法典の要素や、
成立したばかりのフランク王権に関わる規定を取り入れて成立したとみられる。

その後、改定を受けながらカール大帝の時代にも適用された。
しかしフランク王国が分裂、消滅し、その版図に成立した各国の王権が弱かったため、次第に効力を失っていったが、
その影響は後世に残った。


相続条項[編集]

第59章で女性の土地相続を否定している。この条項がしばしばヨーロッパの王位継承に関して持ち出され、
女性王位継承に対して否定的な陣営にとって根拠にされた。
この条項は中世のサリー系フランク人と呼ばれる集団が、
4世紀以降トクサンドリア地方においてサリー系フランク人とシカンブリ人を核にして、
ローマ系住民を含めた様々な人々がローマ帝国の同盟軍として共同の兵役を務めた中から形成されたことに起源を持っている。
この兵役勤務者に与えられた入植地をテラ・サリカと呼び、兵役を勤める男子のみに継承を許したと想定されている。
このテラ・サリカをめぐる事情から後世、フランク人の元では男子のみ土地相続とそれに伴う王位・爵位を得られると解釈された。
女系の相続権はあり、男子がいない場合、女子の配偶者や息子が土地相続者となった。

フランス王国では、他家(特にプランタジネット家)の干渉を恐れて、
サリカ法を根拠として女系を含む女性の王位継承権を廃止したため、女王が選出されることがなかった。

ただし諸侯にはその法は採用されていない。
14世紀にフランスでカペー朝が断絶すると、
イングランドエドワード3世(母イザベラがフィリップ4世の娘)が女系の継承権を主張したために百年戦争が勃発した。
戦争でイングランドが優位に立つと、ヘンリー6世がイングランドとフランスの王を兼ねると宣言されたが、
結局フランスが勝利したため、ヴァロワ朝ブルボン朝を通じてサリカ法典に基づく王位継承が行なわれた[1]。

ドイツでも一般にサリカ法典が採用されていた。
一例を挙げると、ハノーファー選帝侯(のち国王)は1714年以来イギリス国王を兼ねていたが(ハノーヴァー朝)、
1837年のヴィルヘルム(ウィリアム4世)の没後、姪のヴィクトリア女王がイギリス王位を継承すると、
サリカ法典を取るハノーファーはヴィルヘルムの弟(ヴィクトリアの叔父)エルンスト・アウグストを国王とし、
同君連合を解消した。

長くドイツの影響下にあったルクセンブルクでは1815年の大公国成立以来、
オラニエ=ナッサウ家のオランダ国王が大公を兼ねる同君連合が組まれていたが、
1890年にオランダでウィルヘルミナ女王が即位すると、女系継承の規定がないルクセンブルクは同君連合を解消し、
遠縁に当たるナッサウ=ヴァイルブルク家のアドルフを大公に迎えた。
だが2代で男子が絶えてしまったため、継承法を改定して女子の継承を認めることとなり、
女大公が2代続いた(マリー=アデライド、シャルロットの姉妹)。







オーストリア継承戦争
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E7%B6%99%E6%89%BF%E6%88%A6%E4%BA%89
オーストリア継承戦争(1740年 - 1748年)は、神聖ローマ皇帝位およびオーストリア大公国(ハプスブルク君主国)
の継承問題を発端に、ヨーロッパの主要国を巻き込んだ戦争。カナダやインドで英仏間の戦争にも発展した

背景
神聖ローマ皇帝カール6世は男子に恵まれず、長年後継者に悩んでいた。
そこで娘のマリア・テレジアハプスブルク家領(オーストリア)を継がせるため、
女子の相続を認めるプラグマティッシェ・ザンクツィオン(国事詔書)を発布し、
いくらかの譲歩を行ってフランスなど欧州主要国にこの詔書を認めさせた。
またハプスブルク家は伝統的に神聖ローマ皇帝世襲してきたが、
女子は帝位に就けないので、マリア・テレジアの夫トスカーナ大公(元ロレーヌ公)フランツ・シュテファンの即位を要求した。
しかしルイ15世のフランス宮廷は、ハプスブルク勢力を弱体化させる絶好の機会として背後で画策し、攻撃を仕掛けた。
これがオーストリア周辺諸国の間での戦争に発展した。
主にオーストリアを支援したのは、フランスと対立するグレートブリテン王国(イギリス)
ネーデルラント連邦共和国(オランダ)であった。後にザクセンサルデーニャオーストリアの側で参戦した。
これと敵対する側に立ったのはプロイセン、フランス、スペイン、バイエルンであった。





これらの結果アメリカは独立戦争、American Revolutionary Warを起こすの。
そして、モンロー主義になった。
だから、テンノーテンノーわめいている君たち日本は、我々アメリカの同盟国じゃないの。

君達の右左ともに、マスコミにしろセンコーにしろ学者にしろ権力者にしろ官僚にしろ、アメリカについて嘘を教えている。
迷惑だ。








ああ、これは西ローマ内の権力争いの話ね。西ヨーロッパ。

このほかに、
東には
東ローマ帝国=ビザンチン帝国=ロシア帝国
があって、
南には
オスマン帝国=トルコ帝国があるの。

で、2000年前から権力闘争している。

だからアメリカはモンロー主義なの。

日本はこれを見て、
ああ素敵、っていって明治維新以降こいつらを真似して中央集権独裁国家作って介入しだしたの。
ただの馬鹿、猛烈な馬鹿だろ。
バイバイ。
アメリカを巻き込むなよ。


西ヨーロッパは、カトリック
東ヨーロッパは、ギリシャ正教(ロシア正教)で、東のキリスト教
ローマ系とギリシャ系に分けられる。




これらは、西ローマ内だけの話だぞ。
世界はさらに東ローマにトルコまで入ってくるwww


第1次大戦もこの流れ。
南下政策とか嘘だから。日本に都合の良い教えなだけで。

バルカン半島は、
西ヨーロッパは、カトリック、ローマ系。
東ヨーロッパは、ギリシャ正教ギリシャ系。
さらにオスマントルコが南にいて、
国境紛争地帯。

だから、スラブ系ロシア系が、オーストリアの皇太子、ハプスブルグ家の長男を暗殺したわけ。
サラエボ事件ね。


日本には都合の良くない事実だろwww
日本よりはるかに歴史や伝統がある世界帝国が存在し、
その皇位や権力位をめぐって世界中が何度も世界大戦を起こしている、
なんて事実はwww

皇帝はクソだしw
日本なんか新参国だしw

ネトウヨ発狂しちゃうだろ。プライドがずたずたにされて。だからだよw


お前ら日本を金持ちにしたのが全ての間違いだったんだ。
日本は途上国でいるべきだったんだ。
日本をバブルにするし日本の芸能界を否定はしてないぞ。矛盾はしない。

江戸時代にも芸能はあったし。
例えば、芸能人で南米の貧富の差の大きい金持ちを絶賛する方は沢山いるが。
南米はカトリックでスペインポルトガルの植民地でプランテーションだったから貧富の差が今だに大きい。
その結果ありえないような金持ちがいる。

アメリカのせいじゃない。
そういえばこの件に関しても日本は嘘を教えているよね。



[10]
大航海時代を推進したのも、神聖ローマ帝国皇帝だな。スペイン国王は、神聖ローマ帝国皇帝だ。www


[Wikipedia]
第一次ウィーン包囲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E5%8C%85%E5%9B%B2
第一次ウィーン包囲(だいいちじウィーンほうい、Erste Wiener Türkenbelagerung)は、1529年、スレイマン1世率いるオスマン帝国軍が、2ヶ月近くに渡って神聖ローマ帝国皇帝にしてハプスブルク家の当主、オーストリア大公であるカール5世の本拠地ウィーンを取り囲んだ包囲戦。
ここに至るまでの当時の国際関係は非常に複雑であり、この戦い自体は1494年から続けられていたイタリア戦争の一環として、そのハイライトとして行われた戦いである。
歴史的に見れば、この包囲戦の結果、オスマン帝国バルカン半島の領有が確定し、その支配は17世紀終わりまで続く。


戦前の各国の状況[編集]
フランスから見た経緯[編集]
当時のフランス王はフランソワ1世である。
当時のフランスは、オーストリアとイタリアの利権を激しく争っており、ローマ教皇及びイタリア諸都市を巻き込む大紛争に発展していた。
これがイタリア戦争である。
1519年にハプスブルク家神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世が亡くなると、フランソワはマクシミリアン1世の孫でハプスブルク家の当主カール(スペイン王カルロス1世。後の神聖ローマ皇帝カール5世)に対抗して次の皇帝を決める皇帝選挙に出馬する事になった。
もしカールがスペイン王と同時に神聖ローマ皇帝を兼ねた場合、フランスは東西からハプスブルクの勢力に挟み撃ちにされる危険性が非常に高かったからである。

しかしこの目論見は失敗し、カールが帝位を獲得する。
結果、先の懸念は現実の物となりフランスはハプスブルク家によって東はオーストリア、西はスペインから挟まれてしまう格好になった。
この事態に対して、敵の敵は味方とばかりにフランソワ1世はドイツ国内のザクセン選帝侯などのルター派勢力、ローマ教皇クレメンス7世などカール5世の敵対勢力と次々に手を結び包囲網を築きあげていった。
その中でも最も強い軍事力を持っていたのがオスマン帝国である。
これには挟み撃ちになったフランスの起死回生の策として、フランスとオスマン帝国が同盟を結ぶことによって逆にオーストリア本国を挟み撃ちにする狙いがあった。

オーストリアから見た経緯[編集]
カール5世が皇帝に即位した時の神聖ローマ帝国は、宗教改革の嵐が吹き荒れている最中であった。
元々彼自身は熱心なカトリックであったが「神聖ローマ皇帝」という存在自体が「カトリックの守護者」という大前提の元に成り立っていた。
つまりローマ教皇カトリックを守護することを前提としてドイツ王に帝冠を与えるという側面を持っていたわけである。

こうしてスペイン国王についで神聖ローマ皇帝の座を射止め、自信に満ち溢れていたカール5世は、皇帝たる自身の声によって直接説得を行う事によって、宗教改革を終息へ向かわせる事が可能だと考えていた。
1521年にマルティン・ルター自身をヴォルムス帝国議会に招集し、自らの説得を行ったカール5世だったが、ルターが自らの信条を翻そうとしなかった結果、カール5世は彼を異端と宣言し法の保護を剥奪、ルター派の活動は絶対に認めないとの立場を明確にした。
身の危険が迫ったルターはザクセン選帝侯フリードリヒ3世の庇護下に入るが、これが長く続く神聖ローマ皇帝ルター派諸侯の対立の始まりであった。
彼らルター派諸侯はフランス王フランソワ1世の援助を受け、カール5世包囲網の一翼に組み込まれていく。



大航海時代を推進したのも、神聖ローマ帝国皇帝だな。


[Wikipedia]
大航海時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%88%AA%E6%B5%B7%E6%99%82%E4%BB%A3
大航海時代(だいこうかいじだい)は、15世紀中ばから17世紀中ばまで続いた、ヨーロッパ人によるアフリカ・アジア・アメリカ大陸への大規模な航海が行われた時代。
主にポルトガルとスペインにより行われた。

大航海時代の変遷
海外進出[編集]
15世紀、モンゴル帝国が衰退すると、強力な官僚機構と軍事機構をもったオスマン朝トルコが1453年ビザンツ帝国を滅ぼし、イタリア諸都市国家連合艦隊にも勝利して地中海の制海権を獲得した。

世界周航
スペインの命を受けモルッカ諸島への西回り航路開拓に出たマゼラン(マガリャンイス)はスペイン王・カルロス1世の援助を得て1519年8月、セビリャから5隻の船に265名の乗組員を乗せて出発した。
1520年10月、南アメリカ大陸南端のマゼラン海峡を通過して太平洋を横断し、グァム島に立ち寄り、1521年にフィリピン諸島に到着した。

ポルトガル・スペイン間の条約締結
ポルトガルとスペインによる新航路開拓と海外領土獲得競争が白熱化すると両国間に激しい紛争が発生した。
さらに他のヨーロッパ諸国が海外進出を開始したため、独占体制崩壊に危機感を募らせた両国は仲介をローマ教皇に依頼して1494年にトルデシリャス条約、1529年にサラゴサ条約を締結した。


[Wikipedia]
カール5世 (神聖ローマ皇帝)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB5%E4%B8%96_(%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%9A%87%E5%B8%9D)
在位
1519年 - 1556年(神聖ローマ皇帝
1516年 - 1556年(スペイン王

カール5世(Karl V., 1500年2月24日 - 1558年9月21日)は、ハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝(在位:1519年 - 1556年)であり、スペイン国王(在位:1516年 - 1556年)としてはカルロス1世(Carlos I)と呼ばれる[1]。
ハプスブルク帝国の絶頂期に君臨し、その治世は、ヨーロッパ統合を果たしたカール大帝以来の歴史的ヨーロッパ概念の体現者とも言われる。
さらに当時は大航海時代の真っ只中にあったため、「太陽の沈まない国」と称されたようにヨーロッパから新大陸、アジア(フィリピン)に至る世界帝国を築き上げた。
彼の理想はオットー1世以来有名無実化していた神聖ローマ帝国を統一し、最終的には西ヨーロッパの統一とカトリック的世界帝国の構築であったが、覇権を争うフランス王国との戦い、宗教改革の嵐、スレイマン1世が率いるオスマン帝国の伸張など相次ぐ戦いに阻まれ、あと一歩のところで目的は果たせなかった。




法律が、大陸系 英米法の二つに分かれるのはここら辺が原因。
国王や絶対王政のせいで、上からの法律になっているのがヨーロッパ大陸





[10]
で、この流れの中にモンロ-主義や南米問題もある。
君たち日本は反米的なデマを垂れ流し続ける悪の帝国だ。

ローマ帝国ビザンチン帝国や神聖ローマ帝国に関するコメントが何も無い時点でおかしい。
現実とは反する架空の空想の世界を信じている奴らを、統合失調とかよぶんだと思うがwww
君たち日本人は頭がおかしい可能性が高い。


[Wikipedia]
メキシコ帝国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%AD%E3%82%B7%E3%82%B3%E5%B8%9D%E5%9B%BD
メキシコ第一帝政(1821年-1823年)
スペインの植民地、ヌエバエスパーニャが独立した後、 1822年7月21日から1823年3月19日にかけて存続した国家。
独立運動の指導者アグスティン・デ・イトゥルビデが皇帝アグスティン1世を名乗り、絶対君主として統治した。
その領土は現在のメキシコの2倍に匹敵するほど広大なものであった。
成立して間もなく、強権的な皇帝に対する国民の不満が急速に高まり、帝国は1年と経たずに崩壊し、メキシコ合衆国 (1824年–1864年)が誕生した

メキシコ第二帝政1864年-1867年)
1864年から1867年にかけて存続した国家。
皇帝はオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟マクシミリアンで、フランス帝国フランス第二帝政)のナポレオン3世によって樹立された傀儡政権であった。
マクシミリアンは精力的に皇帝としての役目を果たそうとしたが、外国出身でさらにフランス軍を伴ってきたマクシミリアンを、メキシコ国民は支持しなかった。
国民の支持のないままマクシミリアンは皇帝となった。


[Wikipedia]
フランツ・ヨーゼフ1世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%951%E4%B8%96
ハプスブルク=ロートリンゲン家

フランツ・ヨーゼフ1世1830年8月18日 - 1916年11月21日、オーストリアの発音で「フランツ・ヨーセフ」)は、オーストリア帝国の皇帝(在位:1848年 - 1916年)。
オーストリア=ハンガリー帝国の成立後はハンガリー国王を兼ねた(在位:1867年 - 1916年)


[Wikipedia]
ナポレオン3世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B33%E4%B8%96
ナポレオン3世(Napoléon III, 1808年4月20日 - 1873年1月9日)は、フランス第二共和政の大統領(在任:1848年 - 1852年)、のちフランス第二帝政の皇帝(在位:1852年 - 1870年)。本
ナポレオン・ボナパルトの甥にあたり、1815年のナポレオン失脚後、国外亡命生活と武装蜂起失敗による獄中生活を送ったが、1848年革命で王政が消えるとフランスへの帰国が叶い、同年の大統領選挙でフランス第二共和政の大統領に当選した。
1851年に国民議会に対するクーデタを起こし、独裁権力を掌握。
1852年に皇帝に即位して「ナポレオン3世」となり、第二帝政を開始した
外交ではクリミア戦争によってウィーン体制を終焉させ、ヨーロッパ各地の自由主義ナショナリズム運動を支援することでフランスの影響力を拡大を図った。
またアフリカ・アジアにフランス植民地を拡大させた。
しかしメキシコ出兵の失敗で体制は動揺。1870年に勃発した普仏戦争プロイセン軍の捕虜となり、それがきっかけで第二帝政は崩壊し、フランスは第三共和政へ移行した。


[10]
ルネッサンスは市民文化じゃないぞ。

[Wikipedia]
メディチ家
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%81%E5%AE%B6
メディチ家の当主は弟のジョヴァンニ枢機卿(ロレンツォの次男)に継承された。
1512年、ジョヴァンニを筆頭にしたメディチ家は、ハプスブルク家の援助を得てスペイン軍と共にフィレンツェに復帰。
1513年、ジョヴァンニは教皇レオ10世として即位し(在位:1513年 - 1521年)、メディチ家フィレンツェローマ教皇領を支配する門閥となった。
レオ10世は芸術を愛好し、ローマを中心にルネサンスの文化の最盛期をもたらしたが、多額の浪費を続けて教皇庁の財政逼迫を招き、
サン・ピエトロ大聖堂建設のためとして大がかりな贖宥状(いわゆる免罪符)の販売を認めたことで、
1517年のマルティン・ルターによる宗教改革運動のきっかけを作った。


[10]
今世界史もお勉強中、おかげで頭よくなるわwww
お前ら日本人は散々俺をだましたよね。今だにだまされてる日本人もいっぱいいいるね。これ高校生のお勉強でセンター試験に出るんだろ?w


カルロス1世/カール5世
http://www.y-history.net/appendix/wh0903-015.html
16C前半の神聖ローマ皇帝ドイツ王スペイン王(カルロス1世)などを兼ねヨーロッパ最大の勢力を有した。
その時ドイツでは宗教改革が始まる。またフランスとのイタリア戦争を戦い、東方ではオスマン帝国の侵攻を食い止めた。
またこの時、マゼランの世界周航やコルテス、ピサロなどのアメリカ大陸文明の征服などがおこなわれた。

ハプスブルク家の全盛期、ドイツの宗教改革の時期の神聖ローマ帝国皇帝(在位1519~56)。
同時に、スペイン王(在位1516~56)を兼ね、カルロス1世とも称す。
ハプスブルク家の皇帝として、神聖ローマ帝国に君臨すると同時に、オーストリアネーデルラント、スペイン、ナポリ王国などを相続し、
またスペイン王としては新大陸に広大な領土を所有した。

いつほうまた宿敵フランスのフランソワ1世とはイタリア戦争を戦い、東方からのオスマン帝国のスレイマン1世の脅威にもさらされた。
イタリア戦争を優位のうちに進め、1527年にはフランスと結んだローマ教皇に圧力を加えるためローマを攻撃(「ローマの劫略」)した。
16世紀のヨーロッパ情勢は彼を中心に廻っていたとも言えるキーパースン


[10]
儒教が正しいとは言ってないぞ。
で、江戸幕府はオランダとは貿易してたわけ。
だから、鎖国と言うのは正しくは無い。

今までの説明で、16世紀17世紀18世紀19世紀のローマ教皇および神聖ローマ帝国がどういう存在かは分かったと思う。
(15世紀14世紀13世紀以前から連綿と続いているけれど)

で、16世紀17世紀に日本にもカトリック教会があったことを自慢するわけ?w
ユネスコに申請するの?
ゆとり世代って官僚にもいるんだねw
が率直な感想w
キリスト教なら何でも同じだとか思ってるわけ?w

日本はたいした国でないことを証明していると思うんだけどwww

完全競争は理解してないし。

一から十まで揚げ足とって説明しないと分からないかな?
こういうこと言うと、プライドが傷ついてさらに俺を逆恨みして俺を叩くことを主眼にしだすよね。
だから私はアメリカ人になりたい。

あ、ナガサキの観光の邪魔したいわけじゃないし長崎の悪口を言いたいわけでもないですよ。

日本は教育からしておかしい。
嘘を教えているよね。
民主主義を守るという観点からは、テンノー制が諸悪の根源ということになるんだけどw
俺をアメリカ人にしてくれ、日本人とは共存できないw


[10]
目一杯単純化すると、
アメリカはピューリタンカトリックから独立した国。
イギリスはイギリス国教会カトリックと対立。
イスラムは当然カトリックと対立。
ロシアはロシア正教カトリックと対立。

正確に書かないと突っ込まれるだろうから追加はしとくけど。実際にはイギリス国教会のイギリスから独立したことは知ってる。

ただそのイギリスがアメリカに税金をかけたことで独立につながったことも知っているよね。
そのイギリスは、カトリックのハプスブルグ家と戦争し続けて戦費がかさんだからアメリカ大陸に税金をかけた。

敵の敵は味方理論で行けば、ロシア正教のほうがピューリタンに近い。

実際、独立戦争の英雄ジョンポールジョーンズは、アメリカ海軍大学に銅像まで立てられているが、
エカテリーナ女帝の時代にロシア海軍で雇われ傭兵の将軍をしてた。

この戦争で、ロシア海軍の将軍をしたのがジョンポールジョーンズ。
クリミア半島はロシア領だと認めたのはアメリカだ、ばかども。
ロシア領でなければ、(シリアやエジプトのイスラム教徒やアラブ人を植民地にしていた)オスマン帝国領だ。
アラビアのロレンスを見ろ。

露土戦争 (1787年-1791年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B2%E5%9C%9F%E6%88%A6%E4%BA%89_(1787%E5%B9%B4-1791%E5%B9%B4)
ギリシア計画」と「ポチョムキン村」[編集]
詳細は「ポチョムキン村」を参照
一方でエカチェリーナ2世は、1782年、「ギリシア計画」にもとづいてオーストリアヨーゼフ2世神聖ローマ皇帝)とのあいだにバルカン半島分割の秘密協定を結び、1783年、「クリミア・ハン国独立」の名においてクリミア併合宣言に踏み切った。
併合されたクリミアにはタヴリダ県が置かれた。
ギリシア計画」とは、バルカン半島コンスタンティノープルを首府とするギリシア帝国を建設し、その皇帝にエカチェリーナの孫コンスタンチン・パヴロヴィチをあてるとする計画であり、いわば東ローマ帝国の復活である

ジョン・ポール・ジョーンズ (軍人)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%BA_(%E8%BB%8D%E4%BA%BA)
ジョン・ポール・ジョーンズ(英語: John Paul Jones、1747年7月6日 - 1792年7月18日)は、アメリカ独立戦争における大陸海軍の軍人。
卓越した指揮能力と活躍によって、アメリカ独立戦争における英雄ともされる。

独立戦争後[編集]
ジョン・ポール・ジョーンズアメリカ海軍における最初の英雄であり、高い能力を持った指揮官であると考えられている。
ロシア帝国における戦いぶりはその才能を示している。
エカチェリーナ2世から対オスマン帝国戦争のための艦隊指揮を任されたジョーンズは、女帝から賜った「パーヴェル・ジョーネス海軍少将」という名前でサンクトペテルブルクから黒海へ派遣された

大陸海軍の後身であるアメリカ海軍の英雄としてアナポリスにあるアメリ海軍兵学校の墓地、

https://en.wikipedia.org/wiki/John_Paul_Jones#Later_life_and_death
John Paul Jones Memorial in Washington, D.C.
On January 26, 1913, the Captain's remains were finally re-interred in a magnificent bronze and marble sarcophagus at the Naval Academy Chapel in Annapolis.[32]


[10]
テンンーも幕府も日本市民の支持を得ていなかったから、外国の力を仰いで権力握ろうとしたんだろ。
代理戦争?違うね。
いちいち被害者面するな。
今なら、明治維新や幕府は外患誘致罪だろw

戦国時代から江戸初期にかけて日本人の1割はカトリック信者だろ?九州に多かった。
この場合おそらくは、領主がカトリックなら領民も全員信者とみなされるからと言うことだと思うけど。


[10]
私はアメリカ人になるのでアメリカ合衆国の99%を守る
だから、
日本は日本でもっと金融緩和をし、日本をバブル経済にし、日本の内需を拡大し、
日経平均を500万円にし、1ドル500円の円安ドル高にし、日経平均を500万円にし、
日本を軍拡し、日本を競争社会にし、
日本を貿易赤字と経常収支赤字を持つ工業製品を輸入する債務国にしろ
結果として、円安ドル高になる
目安として、1ドル500円になるまで緩和しろ

今すぐ、日本は、日本でのみ、外国人労働者を完全自由化しろ。
今すぐ、日本を多民族国家にしろ。

日本は、今すぐ、日本の金融を緩和し、日本の内需を拡大し、
日本を軍拡し、日本の自動車産業をつぶし、
日本を構造改革し、日本をサービス業・観光・金融で食べていく国にしろ
早く、日本に、ゼネコンや土建事業を復活させろ
日本に、ゼネコンや土建事業が足りないぞ

アメリカはモンロー主義になるのだ。
アメリカ軍を全世界から引き上げよう。

日本は今すぐ滅んだ方が良いのではないかといつも思う。