IbrahimNcongoOmar’s blog

Black Lives Matter! I love political correctness.

「新植民地主義Neocolonialism」、ジャンポールサルトル、チェゲバラ。

新植民地主義Neocolonialism」、ジャンポールサルトル、チェゲバラ


新植民地主義Neocolonialism」、ジャンポールサルトル、チェゲバラ
ブラックライブズマターBlack Lives Matter。

* チェゲバラは、有名な革命家で、キューバ革命を主導した。
* ジャン=ポール・サルトルは、有名なフランスの哲学者で、チェゲバラを支持した。
* ジャン=ポール・サルトルは、「新植民地主義Neocolonialism」を批判した。
* ジャン=ポール・サルトルは、アルジェリアのフランスからの独立を支持した。
* ジャン=ポール・サルトルは、米国のベトナム戦争を批判した。

* 植民地の定義とは、なんだ?
植民地は、資源を安価に売らされる。
植民地は、労働力を安価に提供させられる。
植民地は、宗主国の高コスト消費財を買わされる。
https://en.wikipedia.org/wiki/File:Wallerstein%27s_Core-periphery_model.png

* 私には、フランソワ・ミッテランがしたこと全てを正当化するつもりはありません。
しかし、フランソワ・ミッテランは、現在のフランスの政治家よりも左翼です。
つまり、フランソワ・ミッテランは、現在のフランスのいかなる政治家よりもマシです。

* 「人は楽な道を選択するものだから、対外債権国の国の人々は、革命をできない」、と私は思います。
金持ちな国の人々は革命をできない。
もちろん、金持ちも革命をしない。

私は社会主義が大好きです。私は「階級闘争Class Conflict」が大好きです。
Black Lives Matter.ブラックライブズマター。

私は左翼です。
例えば、モロッコアルジェリアチュニジアは、フランスから独立しました。
そして、モロッコアルジェリアチュニジアの人々の大半はイスラム教徒です。


[1]
[Wikipedia]
新植民地主義Neocolonialism」
https://en.wikipedia.org/wiki/Neocolonialism
新植民地主義Neocolonialism」とは、「以前おこなわれた、直接軍事的に支配したり間接的に政治的支配(覇権)をしたりするという植民地手段」に代わり、「途上国に影響を与える」ために、「経済的帝国主義、グローバリゼーション、文化的帝国主義、紐付き援助、を用いる行為」である。
新植民地主義Neocolonialism」は、典型的には、「新植民地主義国に対し、属国にされたり、従属関係になったり、あるいは金融債務を負う」ものであり、「『新植民地主義Neocolonialism』は、典型的には、『新植民地主義国に対し、属国にされたり、従属関係になったり、あるいは金融債務を負う』」という点で、「新植民地主義Neocolonialism」は、「一般的なグローバリゼーションや開発援助」とは異なる。
この結果、過度の政治的支配を受けることになったり借入金の返済義務が急増したりし、伝統的な植民地主義の関係を機能的に模倣したものとなる。
新植民地主義は、しばしば、社会の全ての階層に影響を与え、地域社会に損害を与える新植民地システムを作り上げる--- 「新植民地科学Neo-colonial science」などもその例である。
新植民地主義Neocolonialism」という単語は、フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルにより1956年に発明され、「1960年代に植民地独立を進めていたアフリカ諸国」を説明する際にKwame Nkrumahにより初めて使用された。
新植民地主義は、西側思想家の作品の中でも議論されており、例えば、サルトル(植民地主義新植民地主義、Colonialism and Neocolonialism、1964年)、及び、ノームチョムスキー (米政府のコネと第3世界のファシズム、The Washington Connection and Third World Fascism、1979年)、が挙げられる。

[Wikipedia]
「チェゲバラChe Guevara」
https://en.wikipedia.org/wiki/Che_Guevara
「エルネスト"チェ"ゲバラErnesto "Che" Guevara(1928年6月14日-1967年10月9日)」は、アルゼンチンのマルクス主義者革命家で、医者で、作家で、ゲリラのリーダーで、外交官で、軍事理論家である。
キューバ革命の重要な人物であり、彼の有名な顔立ちは、大衆文化における、あちこちで目にする、反逆および世界的記号の反体制のシンボルとなった。

[Wikipedia]
ジャン=ポール・サルトル
https://en.wikipedia.org/wiki/Jean-Paul_Sartre
1960年にキューバで、ジャン=ポール・サルトル(中央)とシモーヌ・ド・ボーヴォワール(左)が、チェゲバラと会談

ジャンポールシャルルエマールサルトル (21 June 1905 – 15 April 1980) は、フランスの哲学者で、劇作家、小説家、脚本家、政治活動家、伝記作家で、文学評論家であった。
サルトルは、実存主義及び現象学の哲学における重要人物の一人であり、また、20世紀フランスの哲学及びマルクス主義における主要人物の一人である。
サルトルの著作は、社会学、批判理論、ポストコロニアル理論(post-colonial theory)、文芸研究にも影響を与え、さらに、これらの分野にも影響を与え続けている。
サルトルは、また、卓越したフェミニスト(男女同権論者)で、実存主義哲学者の同僚で、作家である、シモーヌドボーヴォアールとの、オープンな関係でも有名である。
サルトルとボーヴォアールは、二人で連れ立って、「文化的前提や社会的前提、及びそれらから予想される教育」に、ライフスタイル及び思想の両方の面で、挑戦した。サルトルとボーヴォアールは、「文化的前提や社会的前提、及びそれらから予想される教育」をブルジョアだとみなしたのだ。
サルトルは1964年にノーベル文学賞を受賞した。「サルトルは常に公的な賞を辞退してきたし、作家は、作家自身が組織となってはいけない」と主張し、サルトル自身はノーベル賞を拒否しようとした。

1 生い立ち
1.2 第2次世界大戦
1941年5月にパリに戻ると、サルトルは、「社会主義と自由、Socialisme et Liberte ("Socialism and Liberty")」という地下組織グループの設立に、他の作家シモーヌドボーヴォアール、モーリス・メルロ=ポンティ、Jean-Toussaint Desanti、ドミニク・デザンティ、Jean Kanapa、エコール・ノルマルの生徒らとともに、参加した。
1946年にサルトルは、まず最初に「レ・タン・モデルヌLes Temps modernes」にこのエッセイの最初の一部分である「反ユダヤ主義者の肖像、Portrait de l’antisemite」を発表したのちに、「ユダヤ人、Anti-Semite and Jew」を発表した。完全な全文はその1年後に「レ・タン・モデルヌ、Les Temps modernes」第3号に発表された。
サルトルは、このエッセイでヘイトの因果関係を説明するなかで、「強制収容所から帰還したユダヤの人々がすぐに見捨てられた」というフランスにおける反ユダヤ主義を攻撃した。
1947年にサルトルは、米国におけるアフリカ系米国人の置かれた状態---特に米国におけるアフリカ系米国人に対する人種差別と差別について---に関するいくつかの論文をサルトルの評論集「シチュアシオン、Situations」第2集に発表した。
その後1948年に、
レオポール・セダール・サンゴールLeopold Sedar Senghor」の著作「アフリカ系でマダガスカル人の新人詩人によるアンソロジー詩集、l’Anthologie de la nouvelle poesie negre et malgache (Anthology of New Negro and Malagasy Poetry)」への序文として、「ブラックオルフェウス、Black Orpheus」(シチュアシオン第3号に再掲、Situations III)を書いた。これは、「存在と無、Being and Nothingness」で初めてサルトルが述べた「哲学の光」により、植民地主義及び差別を批判する作品である。
後にサルトルは何人かの著者から「抵抗者レジスタント」と呼ばれることになるが、
しかしフランスの哲学者で抵抗者の「ウラジミール・ジャンケレヴィッチVladimir Jankelevitch」は、「第2次大戦のドイツによる占領時サルトルが政治活動をしなかった」ことを批判し、「サルトルが自由について深く苦闘している」ことを「サルトル自身の贖罪のためだ」と批判した。
フランス哲学者アルベール・カミュによると、「サルトルは抵抗した作家」ではなくて、「抵抗者が本を書いた」のだ。

1.3 冷戦政策および反植民地主義
1960年にキューバで、ジャン=ポール・サルトル(中央)とシモーヌ・ド・ボーヴォワール(左)が、チェゲバラと会談

植民地主義者として、サルトルは、アジェリアで反フランス闘争において傑出した役割を演じ、また、「フランスによる拷問及びフランスによるアルジェリア強制収容所」に反対する闘争においても傑出した役割を演じた。
サルトルは、アルジェリア戦争において著名なFLN支持者であり、また、「マニフェスト121」に署名したうちの一人でもあった。
結果として、サルトルは自警武装集団「秘密軍事組織、Organisation de l'armée secrete、OAS」の国内での標的とされ、60年代初頭に2回も爆弾攻撃を避けることとなった。
サルトルは後の1959年に、「各フランス人は、アルジェリア独立戦争中フランス人は協同で犯罪を犯した責任がある」と議論した。
(サルトルは、アルジェリアの女性 Arlette Elkaïmを1965年に養女にした)
サルトルは、バートランドラッセルやその他の人々とともに米国のベトナム戦争介入を批判し、米国の戦争犯罪を暴くために法廷を組織した。この法廷は1967年にラッセル法廷として知られることとなる。

サルトルは、フィデルカストロに会い、エルネスト"チェ"ゲバラと会談するために、1960年代にキューバへ行った。
ゲバラが亡くなったあと、サルトルゲバラのことを「知識人であるだけでなく、我々の盛大において最も完全な人間でもある」そして「我々の時代の最も完璧な人物である」と宣言した。
サルトルはさらに「ゲバラは、彼の言葉通りに生き、彼の活動及び彼の人生を語り、そして世界史は彼とともに動いた」とゲバラのことを褒め称えた。

3 経歴及び知的業績
サルトルの人生の広い焦点は、人類の自由の概念を熟考するものだったが、第2次大戦の終わりにかけての1944年から1945年あたりでは、サルトルはより公共問題に知的な関与を始め、そしてこの公共問題への知的な関与はその後長く続くのだ。
サルトルは、第2次大戦前には、「政治に無関心な知的リベラル」という自身の立場に満足していた。

そのときサルトルはこれらの理由でスペイン内戦に参加させられることはなかったが、
その後サルトルのフランス自身が侵略されたときに、その行動を起こさなかったということこそが、サルトルが行動を起こすモチベーションとなったのであり、サルトルのこれらの思想を具現化することになるのである。
サルトルサルトル自身を超えた目的意識をもたせたのが戦争であり、戦争の残虐行為がサルトルの公的立場を変えるきっかけとなったのだと考えることができよう。

戦争に継続的に強制的に関わらされるまで、サルトルは政治的現実を理解していなかったのだが、、戦争によりサルトルの目が政治的現実に開かれたのだ:「世界が『孤立した個々人が自己決定権を持つ』というサルトルの幻想を打ち砕き、世界が『この時代の渦中にいるサルトルの個人的な利害関係』を明白にした」のだ。
1941年にパリに戻り、サルトルは「社会主義と自由、Socialisme et Liberte」というレジスタンスグループを結成する。
1943年にこのグループが解散したあと、サルトルは作家からなるレジスタンスグループに参加する。このグループでサルトルは戦争終結まで積極的な参加者として所属していた。
サルトルは猛烈に執筆を続け、そしてサルトルはこの戦争の経験と虜囚の決定的な経験により「実践する道徳、すべきことをする道徳システム、positive moral system」を作り上げようとし、文学を通してそれを表現しようとした。

サルトルの作品におけるこの新局面の象徴的儀式は、新しい雑誌「レ・タン・モデルヌLes Temps modernes」のためにサルトルが1945年10月に書いた紹介文にまとめられている。
ここでサルトルは、この新雑誌、ということはサルトル自身、と左翼を団結させ、作家たちに政治的関与をするように呼びかけた。

1.4 晩年及び死
1964年10月に、サルトルノーベル文学賞を受賞したが、サルトルは辞退した。
サルトルノーベル賞を自発的に辞退した最初の人物で、ノーベル賞を辞退した人は今までに2名だけである。

1945年にサルトルは「レジオンドヌール賞Legion d'honneur」を辞退した。

サルトルは、「そうした賞により自身を変質させられたくない」と言い、また、「有名な西側文化組織からの賞を受け取ることで、東側対西側の文化的闘争において一方を支持したくない」と主張した。

サルトルの名前は有名になり世の中に定着した(実存主義という言葉も同様に、激動の1960年代に有名になった)が、サルトル自身は、質素で物を持たない生活を続け、死ぬまでずっと活動的に信念を貫いた。例えばサルトルは1968年の夏の間に起きた「パリの五月革命(5月危機、1968年5月のストライキ、May 1968 strikes、May 68)」に参加し、そのとき市民的不服従により逮捕された。

[Wikipedia]
シモーヌ・ド・ボーヴォワールSimone de Beauvoir Prize」
https://en.wikipedia.org/wiki/Simone_de_Beauvoir_Prize

[Wikipedia]
「5月革命、五月危機、May 68」
https://en.wikipedia.org/wiki/May_68
* 内戦参加者
無政府主義者Anarchists
フランス共産党French Communist Party
シチュアシオニスト・インターナショナルSituationist International
占拠維持委員会Council for Maintaining the Occupations
民主社会主義左派連盟Federation of the Democratic and Socialist Left
学生:
「フランス全国学生連盟Union Nationale des Etudiants de France」
ソルボンヌ大学占拠委員会Sorbonne Occupation Committee」
労働組合:
「フランス労働総同盟、General Confederation of Labour、Confederation Generale du Travail、CGT」
「労働者の力、Workers' Force、Force Ouvrière、FO」
* 指導者
非中央集権指導者層
著名な人物が参加: 「フランソワ・ミッテラン、Francois Mitterrand」、「ピエールメンデス、Pierre Mendes」

フランス全土で暴動が起きた。1968年5月に始まり、7週間ほど続き、その間、大学の占拠や工場の占拠、さらにはデモ、ゼネラル・ストライキなどが起きた。
「5月革命、May 68」として知られることになるこの出来事の最盛期には、フランス経済が停止した。
政治家達が内戦や革命が発生するのではないかと恐れるほどに、抗議活動は激化した;大統領のシャルル・ド・ゴールがフランスからドイツへ逃亡するにいたり、国家政府は機能を停止した。
この抗議行動は、しばしば、同時期に世界中で起きた同様の運動と関連付けられる。そして、歌謡曲、想像的落書き、ポスター、スローガンなどの形のプロテストアート(protest art)誕生の原動力となる。

この暴動は、「極左学生が資本主義、大量消費主義、米帝国主義、伝統的組織に対し、占拠という抗議行動をした一連の行動」とともに始まった。
警察が抗議活動者たちを強烈に弾圧したため、フランスの労働組合連合が同情ストライキを呼びかけた。このストライキは予想よりも遥かに早く広まり、1100万人の労働者が参加した。これは当時のフランスの人口の22%以上に当たる。
この運動は、「自発的に起きた非中央集権型で非合法」という性質が特徴である;そのことで、労働組合と左翼政党の間で、不一致ときには内部対立まで起きた。
この運動は、フランス史上最も大きなゼネラル・ストライキであり、フランス史上初の非合法な全国規模のゼネラル・ストライキであった。

フランス全土で始まった「生徒による占拠及びゼネラル・ストライキ」は、大学管理者及び警察による強硬な対応と対決することとなった。
ド・ゴール政権が警察を用いこれらのストライキを鎮圧しようとしたことは状況を一層燃え上がらせただけであり、パリのカルチエ・ラタン地区では警察との間で市街戦を引き起こした。

しかし5月末には流れが変化した。
5月27日に「グルネル協約、Grenelle accords」が「政府、労働組合、雇用者」の間でなされ労働者の賃金が大幅に上昇したのだ。

2 5月の出来事
2.4 新しい政府を呼びかける
社会党は、ド・ゴール共産主義者の間の妥協点となる機会を得たのだ。
5月28日に、「民主社会主義左派連盟、Federation of the Democratic and Socialist Left」のフランソワ・ミッテランが、「もう政府は存在しない(there is no more state)。新しい政府を作る準備ができている」と宣言した。
ミッテランは、1965年大統領選挙で45%という驚くべき高い得票率を得た。
5月29日に「ピエールメンデスPierre Mendes France」も新しい政府を作る準備ができていると表明した;ミッテランとは異なりメンデスは共産主義者を迎え入れることに積極的であった。
社会主義者共産主義者と異なり大きな街頭デモをする能力はなかったが、国民の20%以上の支持を得ていた。

[Wikipedia]
フランソワ・ミッテラン
https://en.wikipedia.org/wiki/Fran%C3%A7ois_Mitterrand
フランソワ
「フランソワ・モリス・アドリヤン・マリー・ミッテラン、Francois Marie Adrien Maurice Mitterrand (1916年10月26日–1996年1月8日)」はフランスの政治家で1981年から1995年までフランスの大統領をした。これはフランスの歴史上最も長い。
フランス社会党の第1書紀として、フランス第5共和制においては、初めて大統領になった左翼の政治家である。

5 第5共和制蚊で野党
5.3 社会党リーダー: 1971年–81年

6 大統領
6.1 第1期: 1981年–1988年
1981年5月10日の大統領選挙において、フランソワ・ミッテランはフランス第5共和国において初めての社会主義者の大統領となり、ミッテランの政府は23年ぶりの左翼政権となった。
6.1.1 経済政策
ミッテラン政権第1期目の始まりは、「フランスへの110の提案、110 Propositions for France」及び社会党共産党、左翼急進党(Left Radical Party)の間で合意した「1972年共通プログラム、1972 Common Programme」に基づいた左翼経済政策に特徴づけられる。
この経済政策は、いくつかの企業の国営化、最低賃金の10%増加、1週間39時間労働、1年あたり5週間の休暇、富裕層への「連帯税solidarity tax」創設、福祉給付の増大、雇用者についての相談や情報へアクセスする労働者の権利の拡大(Auroux法で成立)などが含まれる。
6.2 第2期: 1988年–1995年
6.2.1 内政
ミッテランの第2期目は、(*)「社会編入最低所得、Insertion Minimum Revenue、RMI」の設立。これは他に何も収入元がなく奪われている人々に最低レベルの収入を保証するものである; (*)富裕層への「連帯税solidarity tax」の復活。これはシラク内閣で廃止されていた; (*)一般社会保障税; (*)ヘイトスピーチを禁じホロコースト否定を禁じる「1990年ゲソ法、1990 Gayssot Act」;で特徴づけられる。
6.2.2 2回めの政治的協力
「国連人間開発報告Human Development report」は、「1979年から1989年にかけて、フランスはOECD諸国(ポルトガルは除く)で唯一所得格差が拡大しなかった国である」と結論づけた。

[Wikipedia]
ピエールマンデス
https://en.wikipedia.org/wiki/Pierre_Mend%C3%A8s_France
「ピエール・イザーク・マンデス=フランス、Pierre Isaac Isidore Mendes France (1907年1月11日–1982年10月18日)」は、PMFとして知られ、1954年から1955年までの8ヶ月間、「フランスの閣僚評議会議長、President of the Council of Ministers」(フランス第4共和国首相と等価)を務めた。
マンデスは急進党(Radical Party)代表であり、マンデス政権はフランス共産党の支持を受けていた。
マンデスの主要な優先事項は、インドシナにおける戦争(インドシナ戦争)を終わらせることであった。インドシナ戦争ではフランス側だけで既に、9万2千人が死に、11万4千人が怪我をし、2万8千人が捕虜となっていた。
世論調査では1954年2月の時点で「ホーチミン及び彼のベトミン運動(ベトナム独立運動)に率いられた共産主義者の手から、インドシナを再奪取する戦いを続けたい」と考えているのは、フランス人のうちたった7%のみであった。

[Wikipedia]
「フランス急進党、Radical Party」
https://en.wikipedia.org/wiki/Radical_Party_(France)
「急進社会主義者及び急進共和主義者党フランス急進党、Radical-Socialist and Radical Republican Party」は、フランスのリベラル政党で、以前は社会主義リベラルの政党だった。
しばしば「急進党、Radical Party」とも呼称される。

[Wikipedia]
「左翼急進党Radical Party of the Left」
https://en.wikipedia.org/wiki/Radical_Party_of_the_Left
「左翼急進党Radical Party of the Left (フランス語: Parti radical de gauche, PRG)」は、フランスの社会主義リベラル政党。
急進派の党には伝統的なことだが、1972年以来RPGはフランス中道左派政党である社会党(フランス語: Parti socialiste, PS)と密接な同盟関係にある。
2017年の大統領選挙及び国会議員選挙以降、RPGと急進党の合併が議論されている(RPGは1972年に急進党から分裂してできた)。

[Wikipedia]
「121名のマニフェスト、Manifesto of the 121」
https://en.wikipedia.org/wiki/Manifesto_of_the_121
「121名のマニフェスト、Manifesto of the 121」は121名の知識人により署名された公開質問状であり、1960年9月6日に雑誌「Verite-Liberte、真実と自由」に掲載された。
このマニフェストでは、「フランス軍による拷問を糾弾し」、「この戦いについての良心的徴兵拒否者がフランス当局により尊重されるように主張」し、「ド・ゴール政権のミシェル・ドブレ首相の政府」及び「世論」に対し、「アルジェリア独立戦争は独立獲得のための合法な戦いである」ことを認識するよう主張した。
このマニフェストでは、「アルジェリア人の目的・理念は、全ての自由人の目的・理念」であり、「アルジェリア独立運動は、植民地主義の動機に対し、強烈な一撃を与えている」と宣言している。
このマニフェストに署名した人々の大半はフランス左翼に属している。
署名した人々は、マルクス主義者、実存主義ヌーヴォー・ロマン及びヌーヴェルヴァーグの文学及び映画の最先端に携わる人々などの、政治運動及び文化運動に携わる多様な人々である。

[Wikipedia]
「シチュアシオン、Situation (サルトル)」
https://en.wikipedia.org/wiki/Situation_(Sartre)
その後サルトルは、一連の「シチュアシオン、Situation」を発表した。10巻からなり、「文学批評及び文学とはなにか?、Literary Critiques and What Is Literature? (1947年)」、「第3巻、the third volume (1949年)」、「肖像集、Portraits (1964年)」、「植民地主義及び新植民地主義、Colonialism and Neocolonialism (1964年)」、「マルクス主義の問題パート1、Problems of Marxism, Part 1 (1966年)」、「マルクス主義の問題パート2、Problems of Marxism, Part 2 (1967年)」、「馬鹿息子、The Family Idiot (1971年-1972年)」、「1968年頃及び雑録、Autour de 1968 and Melanges (1972年)」、「人生/情勢:書かれたエッセイ及び語られたエッセイ、Life/Situations: Essays Written and Spoken (1976年)」である。

[Wikipedia]
植民地主義及び新植民地主義、Colonialism and Neocolonialism」
https://en.wikipedia.org/wiki/Colonialism_and_Neocolonialism
サルトル著、「植民地主義及び新植民地主義、Colonialism and Neocolonialism」(1964年にフランスで初出版)は、アルジェリアにおけるフランスの政策に対する批評である。この書は、議論を呼び影響が大きかった。
この著作は、「フランスが、以前の、海外領土を持つ帝国から撤退すること」を議論した。そして、「その撤退を達成するために、アルジェリアFLN(アルジェリア民族解放戦線)などによる暴力的抵抗運動の権利を養護した」ことで、議論を呼んだ。
サルトルが書いた、『フランツ・オマール・ファノン、Frantz Fanon』の『地に呪われたる者、Wretched of the Earth』への序文」がこの著作には含まれている。
この本は、「アルベール・メンミ、Albert Memmi」及び「ジャン=フランソワ・リオタール、Jean-Francois Lyotard」が後に書く著作に影響を与えた。

[Wikipedia]
新植民地主義の科学Neo-colonial science」
https://en.wikipedia.org/wiki/Neo-colonial_science
新植民地主義の科学Neo-colonial science」は、ヘリコプター科学、パラシュート科学、パラシュート研究、サファリ研究などとよく言われるが、「富裕国の研究者が発展途上国へ行き、情報を集め、自国へ帰り、データやサンプルを分析し、結果を発表するときに、現地の研究者がほとんど関与していない状態」を言う。
2003年にハンガリー科学アカデミーによりなされた研究では、「ランダムにピックアップした、『最貧国、least-developed countries』についての研究では、70%が、共著者に現地の研究者が含まれていなかった」ことを発見した。

「現地の共同研究者は物流や装備の準備を提供するために利用されるが、現地の研究者は彼らの専門分野に関わることはできないし、研究に参加したというクレジット(クレジットタイトル)すらもらえない」ということが、この類の研究結果からわかる。
パラシュート科学から生じる科学出版物は、裕福な国の研究者の経歴に貢献するだけであり、現地の科学的能力の発展(例えば研究所への資金)には貢献しないし、現地の科学者の経歴にも寄与しない。
これは、「"植民地主義"の科学の一形態」であり、「植民地主義を推進するために、非西洋の参加者を他者として扱う19世紀の科学慣行のやり方」である。---「知識面においても植民地独立を果たすために、こうした慣行を終わらせるべきだ」と批評家達は主張している。

国際的研究者は正しい質問をしないだろうし、現地の問題に繋がりのある結論は出さないだろうから、この類の研究のやり方は研究の質を下げる。
このアプローチの仕方では、「現地社会は、研究を現地に役立てるために活用することが、できない」。
結局のところ、とりわけ地球規模のグローバルな問題を扱う分野において、例えば解決策を実行に移すにあたり現地社会に依存する保全生物学のような分野において、新植民地主義科学は、「現地社会が発見した問題を、科学者の研究対象とするよう組織化して解決すること」を妨げる。

2 分野における例
多数派を占める支配的な民族あるいは社会学的に支配的なグループが、マイノリティーグループが生活している領域(たいていは周辺地域)で研究をした場合も、科学界に属する研究者はダイレクトに表沙汰にしないものの、ヘリコプター科学の危険がある。
例えば、米国では、主にネイティブアメリカンの研究において、ヘリコプター科学がなされてきた。


[2]
以下の「正味対外投資状態"net international investment positions (billion dollar)" 」は、「一人あたり"per capita"」ではありません。
以下の「正味対外投資状態"net international investment positions (billion dollar)" 」は、各国の「正味資本収支(で、正味、債務状態)」。

[Wikipedia]
世界の債務国の正味対外債務
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_debtor_nations_by_net_international_investment_position_per_capita
順位 / 国名 / 正味対外債務
1 米国 -8兆428億ドル
2 スペイン -9780億ドル
3 オーストラリア -7620億ドル
4 英国 -6900億ドル
5 ブラジル -6570億ドル
6 インドネシア -4130億ドル
7 インド -3610億ドル
8 ギリシャ -2660億ドル
9 ポルトガル -2350億ドル
10 キプロス -290億ドル
11 フィリピン -290億ドル

以下の「正味対外投資状態"net international investment positions (billion dollar)" 」は、「一人あたり"per capita"」ではありません。
以下の「正味対外投資状態"net international investment positions (billion dollar)" 」は、各国の「正味資本収支(で、正味、他国にカネを貸している)」。

[Wikipedia]
世界の債権国の2015年の時点における正味対外債権
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_creditor_nations_by_net_international_investment_position_per_capita
順位 / 国名 / 正味対外債権
1 日本 2兆8125億ドル
2 ドイツ 1兆6157億ドル
3 中国 1兆5964億ドル
4 香港 1兆3092億ドル
5 台湾 1兆539億ドル


[3]
1オンス当たりの金(ゴールド)の価格。
1970年:35ドル
1980年:600ドル
2000年:280ドル
2017年:1260ドル
2020年:1770ドル
現在:1800ドル


[4]
自動車は、地産地消にすべきだ。自動車産業を「地産地消」にすべきだ。各国は、自国で自動車を製造すべきだ。
そうすれば、貿易収支は均衡し、債務国は存在しなくなる。

米国は、世界最大の人類史上最大の債務国である。
米国は、世界一外国からカネを借りており、歴史上最も外国からカネを借りている。
つまり、一言で言うと、中国、日本、ドイツは、財政的に米軍を支援しており、米軍に融資している。
もしも、中国、日本、ドイツが、米国国債を買わなければ、米国は米軍を維持できないのだ。

おそらく、我々は、米国を救うことができない、かもしれないだろう。
おそらく、米国は、我々が助けることは不可能であろう。
米白人及びキリスト教は、役に立たない。
すべての米政治家は、私腹を肥やしているだけの、単なるクズだ。
そして、米国のバカな行動により、世界は楽してカネを稼ぐことができるので、世界は米国の行動を正そうとしない。
しかし、我々は前に進まないといけないのだ。
ブラックライブズマター。Black Lives Matter.私はアフリカ系の99%の一人になりたい。私はイスラム教徒になりたい。私は自称イスラム教徒だ。私はキリスト教徒ではない。私は神社の信者ではない。
少なくとも宗教的観点から、少なくとも現在は、イスラム教を選択するのは、合理的答えだ。
米国を合法的に解体し、合法的にアフリカ系国家を作り、及び、合法的にイスラム系国家を作る、ことが、ひょっとすると答えなのかも知れない、と私は思う。

この40年を振り返ってみると、少なくとも今のところは、イスラムのみが世界を平和にできるような気が、私にはする。
例えば、インドネシアやイランは共和国だ。
アフリカ及びイスラムが世界を救える、と私は思う。


[5]
ロナルドレーガンおよびマーガレットサッチャーが、こんにちの自由貿易を開始し推進した。
ロナルドレーガンが、「こんにちの自由貿易」「1979年から1991年までの冷戦」「競争社会」「軍拡」「経済格差」「福祉切り捨て」を始めた。

レーガンは、違法なコントラ戦争を、ニカラグアで起こした。
レーガンは、エルサルバドルで、死の暗殺部隊(デス・スクワッド, Death Squads)を支援し、多くの市民を殺した。
グアテマラでは、米国が支援した虐殺が起きた。

ネルソンマンデラは、1994年から1999年まで南アフリカ共和国大統領だったにもかかわらず、2008年まで米国のテロリスト監視リストに名前が載っていた。
もともとは、米大統領ロナルドレーガンが、1980年代に、アフリカ民族会議(African National Congress:ANC)をテロリスト監視リストに載せた。
ネルソンマンデラは、1991年から1997年まで、ANCの議長を務めた。

ネルソンマンデラは、アパルトヘイト相手に戦った。
その時の南アフリカ共和国政府は、ネルソンマンデラを投獄した。
米国大統領ロナルドレーガンおよび英国首相マーガレットサッチャーは、その時、南アフリカ共和国政府を支持した。
ネルソンマンデラは、ノーベル平和賞を受賞した。
ロナルドレーガンおよびマーガレットサッチャーレイシストだ。
ロナルドレーガンおよびマーガレットサッチャーの支持者もレイシストだ。

Black Lives Matter!ブラックライブズマター!Black Voters Matter!ブラックボーターズマター!
米国国防省・米国のメディア・ホワイトハウス・米国の政治家・米国の大学・米国のトップ1%・米国のセレブ・ハリウッド・ウォールストリートよりも、我々は左だ。

他方で、ドイツのファシズムは極右だ。ナチは極右だ。

今日の西側の政治家は全員、ロナルドレーガンの支持者だ。今日の西側の政治家は全員、ロナルドレーガン派だ。
ロナルドレーガンは極右だ。
日本および米国防省および米マスコミおよびウォールストリートおよびハリウッドが、ロナルドレーガンを育てたのだ。

アメリカ合衆国の99%は、次の選挙で、米上院軍事委員会メンバー議員に対し落選運動をすべきだ!
アメリカ合衆国の99%は、次の選挙で、米下院軍事委員会メンバー議員に対し落選運動をすべきだ!


[6]
* 米国は、「国連総会を中心と考える主義、及び、人権を中心と考える主義」に戻るべきだ。
* 世界は、「国連総会を中心と考える主義、及び、人権を中心と考える主義」に戻るべきだ。
* 国連安全保障理事会常任理事国は、国連総会においては拒否権を持たない。
* 「国際連合総会決議377 United Nations General Assembly Resolution 377 (1950年平和のための結集 Uniting for Peace 決議)」は、安全保障理事会常任理事国のいかなる拒否権も覆すことができる仕組みを、国連総会に提供するもの、である。
* エレノアルーズベルトは、国連人権委員会(the U.N.Commission on Human Rights (CHR): 国連人権理事会の前身)の初代議長である。
* 国連総会は、「世界人権宣言Universal Declaration of Human Rights(1948年)」、「国際人権規約International Bill of Human Rights(1966年)」、「国際連合人権理事会(United Nations Human Rights Council」を採択した。
* だから、国際社会が米国で人権侵害を発見したときには、国連総会には米国に介入する権利と義務がある、
この結論は、国連はドイツのファシズムを倒すために設立されたことを思い起こすと、極めて自然な結論である。

* 米国人は、ユネスコ事務局長を、1952年から1953年までと、1953年から1958年まで、務めた。
* 米国は、ロナルドレーガン時代の1984年に、初めて、ユネスコから離脱した。2003年10月1日に米国はユネスコに再加盟した。
* アルバートアインシュタインおよびマリーキュリーは、国際連盟の新たに作られたInternational Committee on Intellectual Cooperation(国際知的協力委員会、のちのユネスコ)のメンバーとなった。

* 「奴隷貿易とその廃止を記念する国際デー, International Day for the Remembrance of the Slave Trade and its Abolition」は、ユネスコが定めた国際デーで、毎年8月23日に、大西洋奴隷貿易(Atlantic slave trade)を記念する日である。
* この日は、1791年8月22日から23日の夜にかけて、サン=ドマング(現在のハイチ)において、大西洋奴隷貿易の廃止の重要な要因となった反乱(ハイチ革命)が始まった、奴隷貿易の廃止において重要な日である。

* ロナルドレーガンが、1984ロサンゼルスオリンピックで、こんにちの、商業オリンピックを始めた。

* 国際連合社会主義
* 国連には、「UNCTADやUNICEFやSDR(Special Drawing Rights)」という、「所得再分配機能および富の再分配機能」がある。
* 国連には、UNCTADやUNICEFやSDR(Special Drawing Rights)という、カネのない国を援助する装置がある。(私は途上国に失礼なことを言うつもりはない)、
* UNICEF(国際連合児童基金)は、世界で最も広まり、世界で最も認知されている、社会福祉組織であり、192の国と地域で活動している。
ユニセフは「『全ての子供たち、特に差別と排斥の危機にさらされている子供たち、の福利厚生をサポートする社会的保護システム』を諸国で強化し広めること」を手助けしている。
「『国による資金援助プログラムの開発と拡大』をサポート」し「社会的保護システムの強化」することにより、たとえ人道的危機に直面していても、全ての家族が「医療、教育、社会福祉」にアクセスできるようにする。
「どこでどのように公的資金を使用するか」という各国政府の決める選択は、貧困のサイクルを止めるのに決定的な影響力がある。
今までの全ての7人のユニセフ事務局長は米国人。

* SDR(Special Drawing Rights, 特別引出権)の配分は、「流動性を確保」し「加盟国の公的準備金(引当金)を補う」役割を果たすことができる。

* UNCTAD(国連貿易開発会議)は、「発展途上国の抱く『国際市場、多国籍企業、先進国と発展途上国との巨大な格差』に対する懸念」に基づいて、1964年に設立された。

* 第一次国際連合緊急軍(first United Nations Emergency Force, UNEF)は、スエズ危機(1956年)終結を保障するために、国連総会により設立された。
国連安全保障理事会は、国際連合緊急軍(United Nations Emergency Force, UNEF)を設立しなかった。
国連安全保障理事会ではなく、国連総会が、二度の国際連合緊急軍(United Nations Emergency Force, UNEF)を設立した(1956年-1967年 および1973年-1979年)。
国連総会では、他の諸国と同様に(約200か国)、米国も1票を持つのみである。


[7]
いまや、米白人は、アフリカの人々よりも、人権を知らない。いまや、米白人は、後進国だ。
こんにち、ロシアも欧州評議会のメンバーである。

* こんにちの米軍、こんにちの米国防省及びこんにちのCIAこそが、米ユニラテラリズムの象徴だ。
* 米国は、「国連総会を中心と考える主義、及び、人権を中心と考える主義」に戻るべきだ。
* 世界は、「国連総会を中心と考える主義、及び、人権を中心と考える主義」に戻るべきだ。
* そもそも、国連決議で採択された合意の達成や平和の維持は、国連総会の仕事だ。
* 米軍は、国連総会のコントロール下になるべきだ。
そして、もちろん、米国人はそんな状況を望まない。
(あなたがたが軍の給料を払う。あなたがたが軍の装備を買いそろえる。あなたがたが軍のメンバーになる。そして、国連総会がその軍を指揮する。もちろん、あなたがたはそんな状況を望まない。)

つまり、米軍は役立たずだ。
もはや、我々には米軍は不要だ。

米国は、米国の軍事費を1年あたり100億ドルに今すぐ減らせ。

米国および米国マスコミはわざと真実を言わず嘘を報道している。
米大統領はもはやコマンダーインチーフ(最高司令官)ではない。
国連により戦争は禁止されている。

* 米軍、米軍需産業、米国にあるすべての軍事企業、全ての米軍事企業、米国防省およびCIAを今すぐ解体しろ。
* ドイツ、日本、中国からなる、米国債権を買うためのコンソーシアム(国際借款団)、を今すぐ解体しろ。

* 米軍の年金は、ユニバーサルヘルスケアに統一しろ。
米国の公的年金は統一すべきだ。
そうでないのなら、米軍は、いったい、毎年7000億ドルも浪費して、なにからなにを守っているのだ?

* 近い将来、ロナルドレーガン派(マスコミも含まれる)は、著名な政治家をすら、買収するだろう。著名な政治家はすぐに買収される。
政治家は、ただの操り人形に過ぎないのだ(ダイレクトな表現だが)。今や、私もルールを理解した。
だから、我々が反撃するためには、我々には、我々自身のロビイスト、我々自身の政治活動グループ、我々自身の市民権活動グループが必要だ。我々は、我々の起源を奪われた。我々は根無し草なので、我々を買収するのは困難だ。
ブラックライブズマター!Black Lives Matter!

* 米国は、歴史上、世界最大の債務国だ。
米国は、歴史上、外国からカネを最も借りている国だ。
つまり、米国は、歴史上世界一貧乏な国だ。
つまり、今や、米国は、この21世紀に、歴史上世界最大の奴隷制度国家なのだ。米国は、米国にいる移民および有色人種を搾取している。
金持ちにもっと増税しろ。ウォールストリートにもっと増税しろ。

* 一言で言うと、金本位制度の下では、政府が持つゴールドの量以上のカネを、政府は使えない。
金本位制度の下では、自動的に、総予算は制限され、インフレが止まる。
1944年ブレトンウッズ合意は金本位制度である。フランクリンルーズベルトが1944年ブレトンウッズ合意を開催した。
円/ドル相場だけに注目するのは無意味である。
例えば、米国が流通しているドル紙幣の量を2倍にしたとしても、日本も流通している円紙幣の量を2倍にすると、円/ドル相場は変わらない。
高い住宅価格などは、インフレである。ベトナム戦争アポロ計画などなど、のすべてが、住宅価格を引き上げたのだ。

金(ゴールド)の値段が上がったのではない。紙幣が金(ゴールド)に対して価値が下がったのだ。紙幣の価値が下がっているのだ。
ブレトンウッズ体制により、1944年から1971年まで、ドルは、金(ゴールド)1オンス当たり35ドルという固定価格で交換できた。そして、諸通貨の為替レートはドルに対し固定されていた。全ての通貨はドルにペッグしていた。
2020年、金(ゴールド)は1オンス1700ドルである。
つまり、1970年には、100ドルで約90グラムの金(ゴールド)が買えた。
2020年には、100ドルで、たった約2グラムの金(ゴールド)が買えるだけだ。