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モラント湾の暴動(ジャマイカ事件)

モラント湾の暴動(ジャマイカ事件)


モラント湾の暴動(ジャマイカ事件)
書類上は、元奴隷の方々は選挙権を有していた
しかし、多くのアフリカ系の方々は絶望的なまでに貧困なままであり、高い人頭税を払うことが義務付けられていたために、有権者登録できないように、仕向けられていた。
1864年の選挙において黒人と白人の人口比は32対1であったが、総人口43万6000人以上のうち選挙権があったアフリカ系のかたは2000人に過ぎなかった(当時女性は投票できなかった)。


[1]
[Wikipedia]
モラント湾の暴動(ジャマイカ事件)
https://en.wikipedia.org/wiki/Morant_Bay_rebellion
モラント湾の暴動(ジャマイカ事件、1865年10月11日)は、 ジャマイカのモラント湾でポールモーグルに率いられた数百人の人々が、裁判所に向かって抗議の行進をすることで始まった。
棒や石で武装している人々すらいた。
自警団に、7人が銃撃され死亡すると、抗議の更新をしていた人々は裁判所や近くの建物を焼き払いだした。
その後の2日間で、小作人の方々はセント・トーマス教区で蜂起し、その地区を制圧した。
ジャマイカの方々は、不正に対し、そして、広がる貧困に対し抗議していた。
解放奴隷の大半の方々は、高い人頭税により選挙権を否定されていた。そして、洪水により農作物が打撃を受け、コレラ天然痘の流行し、長期にわたる干ばつにより、生活レベルは悪化していた。

数日前に、裁判を妨害しようとしたかどで警察が男を逮捕しようとしたが、観衆によりケンカが始まった
役所は、ボーグル牧師に対し逮捕状を発行した。

総督Edward John Eyreは、そのエリアに戒厳令を敷き、反乱を追跡して捕らえるよう、軍に命令した。
軍は、女性と子供も含む無実の多くのアフリカ系の方々を虐殺した。初期死亡者数は400人を超えた。
兵隊は、ボーグルを含め300人以上を逮捕した。
逮捕された方々の多くは無実であったが、戒厳令の元、即座に裁判にかけられ処刑された;男女ともにむち打ちの刑に賭けられ、長期刑を受けた。

総督Edward John Eyreは、セント・トーマス教区の議員で混血なかたのGeorge William Gordonをキングストンで逮捕しモラント湾へ連行した。
モラント湾では戒厳令が敷かれていたので、George William Gordon議員を戒厳令下で裁判にかけた。
Gordon議員は即座に有罪とされ処刑された。

暴力的な鎮圧および数多の処刑は、英国本土で激しい議論を呼び起こした。
あるものは、総督John Eyreの行動を反憲法的だと批判した。ほかの者は、総督John Eyreの行動を、危機に対する行動として称賛した。

この反乱と反乱を鎮圧したことは、今でも議論の的であり、アフリカ系の専門家のかたや植民地研究の専門家では、よく討論される。


1. 背景
ジャマイカでは1834年8月1日に、奴隷廃止法1833年が成立し、奴隷制度は廃止された。
この法律では、4年間の年季奉公制度の移行期間の後、1838年8月1日から、完全に奴隷解放がなされた。
この日、元奴隷の方々が自分の職業を選択する自由を得られるようになり、雇用主を選択できる自由を得られるようになったのだ。
書類上は、元奴隷の方々は選挙権を有していた
しかし、多くのアフリカ系の方々は絶望的なまでに貧困なままであり、高い人頭税を払うことが義務付けられていたために、有権者登録できないように、仕向けられていた。
1864年の選挙において黒人と白人の人口比は32対1であったが、総人口43万6000人以上のうち選挙権があったアフリカ系のかたは2000人に過ぎなかった(当時女性は投票できなかった)。
反乱以前、ジャマイカの解放奴隷の方々の環境は悪化していた。

1864年には幾度か洪水があり、多くの作物をダメにした。
そして1865年までの10年間、コレラ天然痘が大流行していた。
1865年までの2年間は干ばつであり、元奴隷のかたやその子孫たちの大半の経済状態を悪化させていた。
砂糖産業では何件か破綻が起き、仕事がなくなり、経済的な空白が生じていた。
結果として、白人農場主と元奴隷の方々の間の緊張が高まり、解放奴隷の方々の間では、白人農場主が奴隷制度を復活させる気だという噂が広まりだした。

1865年に、英国バプテスト伝道会社事務長Edward Underhillは、ロンドンの植民地省に手紙を書き、ジャマイカの多くの人々がいかに貧しい状態にあるかを陳情した。
この手紙はその後、ジャマイカ総督のJohn Eyreのもとに届き、John Eyreは即座にこの手紙に書かれている真実を否定しようと試みた。
この手紙の存在を知ると、ジャマイカの貧しいアフリカ系の方々は"Underhill Meetings"を組織した。
セント・アン教区の小作人の方々は、「耕作する自分たちの土地が見つけられないので、王家の土地をくれるよう求め」ビクトリア女王に請願書を送った。
その手紙はまずJohn Eyreのもとに送られ、John Eyreは自分の書簡をつけて英国に送った。

女王の返事は公表された。多くの貧困層は「John Eyreが女王の意見に影響を与えたのだろう」と思った。
女王は、貧困層に何の助けも出さず、逆に、貧困層に向かって「もっと働け」と返事をよこしたのだ。

セント・トーマス教区の二人の議員のうちの一人で混血なかたのGeorge William Gordonは、
彼の地区の人々の苦境が知られるようにする方法を探すように人々を励まし続けた。

彼に従った人々の一人に、アフリカ系バプティストのかたであるポールボーグル助祭がいた。
1865年にボーグルは、セント・トーマス教区の小作人代表団を率い、総督John Eyreと議論するために首都スパニッシュ・タウンに向かった。
しかし総督は彼らに会うことを拒絶した。
ジャマイカのイギリス人は、ほかのカリブ海植民地の白人と同様に、ハイチ革命の際に白人に対し起きた広範な虐殺と暴力を覚えていたのだ。
ハイチの奴隷の方々は、1804年に独立を達成した。
元奴隷や貧困層のアフリカ系ジャマイカ人の方々も同様に白人エリート層に対し暴力的に決起するのではないかと、ジャマイカの白人は恐れていたのだ。


2. 反乱とそれに対する反応
1865年の10月7日、ある黒人の男が長期にわたって放置されていた農場に不法侵入した咎で裁判にかけられ、収監されたことが黒人のジャマイカ人たちの怒りを呼び起こした。
抗議する黒人のかたのJames Geoghegonがモラント湾での裁判を混乱させた。
James Geoghegonを逮捕し裁判所から連行しようとして、警察と抗議者達との間でケンカが起きた。
翌月曜日、裁判所は、暴動・公務執行妨害・警察暴行のかどで、何人かに対し逮捕状を発行した。
逮捕状が出た中には、ポールボーグル牧師もいた。
数日後の10月11日、ポール・ボーグルは抗議活動をする数百人の小作人労働者とともにモラント・ベイ市へと行進した。
彼らは行進する前に、「アフリカにおけるキリスト教」に基づくエチオピアの伝統である"cleave to the black and leave the white黒人に忠実であれ。白人から離れよう"という宣誓をした。
これは「反乱を起こす準備ができている」というサインであった。
Gad Heumanの議論によると「アフリカの伝統を持ち出すのは、グループの団結を図り、戦いに備える方法である」ことを示している。
彼らはモラント・ベイ市裁判所へ到着して、地方公務員および少数の(白人)自警団およびプランテーションの人々と遭遇した。
群集は自警団に石を投げ付けだし、自警団は群集に砲火を開いた。
その後2日間でアフリカ系小作人の反乱軍はセント・トーマス教区を制圧した。
総督John Eyreは武装に乏しい反乱軍を追い詰め、ポール・ボーグルをモラント・ベイで裁判にかけるために准将Alexander Nelsonの政府軍を派遣した。
軍隊は組織的な抵抗に遭遇しなかったが無差別に黒人を虐殺し、そのうちの多くは裁判所での暴動やその後の反乱に関与していなかった。

アフリカ系のかたはそうした計画を自力では建てられないだろうと信じていた総督John Eyreは、
(John Eyreが言うように、白人のこうした、アフリカ系のかたに対する考え方は、当時広く広まっていた)
George William Gordon議員を逮捕した。

ビジネスマンで議員で混血なかたであるGeorge William Gordonは、としても有名で裕福でもあった;彼は総督及び総督の政策について公に批判していた。
総督は、Gordonが、反乱を裏で糸を引いていたと信じていた。
実際には反乱にはほぼ関係ないにもかかわらず、Gordonは即座に有罪判決を出され処刑された。
キングストンで逮捕されたにもかかわらず、キングストンには戒厳令が敷かれていなかったので、総督はGordonをモラント湾に連行した。
モラント湾でならば、Gordonを戒厳令の法律で裁判にかけることができたからである。

Gordonを戒厳令の法律で裁判にかけ処刑したこと、その後さらに反乱軍を虐殺したことで、多くのイギリス人に激しい憤りを感じさせた。
ある兵士の証言によると、「我々は我々の前にいるすべてを殺戮していった…男であれ女であれ、子供であれ」とのことである。
最終的に、439人の黒人ジャマイカ人が直接兵士達に殺害され、ボーグルを含む354人が逮捕され、その後処刑された。その多くが適切な裁判を受けることもなく処刑された。
ボーグルは”裁判にかけられたその晩か翌朝に処刑された”。
10月25日に、ボーグルは、彼の兄モーゼを含む他の14人とともに絞首刑にされた。


3 その後
3.1 英本土での影響
数百人を殺害し、数百人以上を逮捕し処刑した、反乱と総督がやったその鎮圧に関する報道が英国に到達すると、激越な議論が発生した。
総督に対する反対者たちはジャマイカ委員会を1866年に設立し、総督をそこに召喚し大量虐殺で裁判にかけようとした。
ジャマイカ委員会のもっと過激なメンバーは、総督がGeorge William Gordonなどの英国民を殺害したというかどで、英国の法の支配の下で裁判にかけようとした。
戒厳令という根拠で総督がとった行動」は違法だと主張したのだ。
このジャマイカ委員会のメンバーには、John Bright、チャールズダーウィン、ジョンスチュアートミル、Thomas Henry Huxley、Thomas Hughes、Herbert Spencerなどがいた。
一方の、Thomas Carlyleにより設立された総督擁護委員会には、Alfred Tennyson、Charles Kingsley、Charles Dickens、John Ruskin、John Tyndallなどがいた。

3.2 ジャマイカでの影響
1830年代以降、Gordon、Edward Jordon、Robert Osbornなどの多くの有色人種の自由民の方々がジャマイカ議会に選出されるようになり、その数は増えていた。
このことに、植民地の権力者たちは警戒していた。
モラント湾の暴動(ジャマイカ事件)が起きると、総督は、植民地政府の協力を得、憲章を改訂するように議会を説得した。
この結果2世紀にわたるジャマイカ植民地を代表する選出議員の制度は廃止された。
政府は、ジャマイカを英国直轄植民地とし、議会を廃止した。