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北西部条例(1787年)

北西部条例(1787年)


北西部条例(1787年)
宗教・道徳・知識が、良い政府には求められるし、人類の幸福にも必要である
北西部条例で掲げられた自然権の考えは、米国憲法修正条項に引き継がれた
米国の新領土では、奴隷制度も非自発的な奴隷労働も、存在してはならない
最上の誠実さこそが常に求められる


[1]
[Wikipedia]
北西部条例(1787年)
https://en.wikipedia.org/wiki/Northwest_Ordinance
北西部条例(1787年)
(正式な条例名はオハイオ川の北西部におけるアメリカ合衆国の領土の統治に関する条例、であり、1787年条例としても知られる)
は、1787年7月13日に制定された。
アメリカ13植民地各邦議会によって指名された代議員により構成される1781年3月1日から1789年3月4日までのアメリカ合衆国の政体であった連合会議が作った、領土に関する条例である。
この条例は、英国領土の北米と五大湖南部でオハイオ川北部の間の領域である、北西部の領土を規定したものである。米国にとっては、アパラチア山脈を越えて規定された初めての領土である。
1783年のパリ条約で、米革命戦争(American Revolutionary War米独立戦争)は公式に終了したが、そのとき英国はこの領域を米国に譲った。
しかし、連合会議はその領土を統治するにあたりいくつもの問題に直面した。
それら問題とは、
オハイオ渓谷に米移住者が無許可で侵入できる、
ネイティブアメリカンの方々との暴力的衝突、
その領域では英国軍がその領域の要塞にまだ駐留している、
米国に財政的余裕がない、
などである。
北西部条例(1787年)は、1784年の領土条例(Land Ordinance of 1784)および1785年の領土条例(Land Ordinance of 1785)を置き換えるものである。
(1784年の領土条例では、その領土では将来新しい州が設立されると宣言している)(1785年の領土条例では、連合会議がどうやってその領土を市民に売却するかを定義している)
北西部条例(1787年)は、新しい領土での開発及び居住についての青写真としてデザインされたが、それらを実施する強力な中央政府が欠けていた。
この問題は、1789年に新しい連邦政府が誕生したことで解決した。

第1回合衆国議会が、1787年北西部条例を批准した後、少し変更が加えられた1789年北西部条例で更新した。
連合会議が制定した法律で最も重要なものの一つと考えられているのが、これらの条例である。
というのは、大陸会議により1777年に採択された連合規約により連合会議が定義されているが、その連合規約には「独立時の13州が独立した主権を持つ独立国である」ことが規定されている。
「それら現存する13州および13州の独立した主権」を拡大するのではなく、
連邦政府が主権を持ち・西方に拡大し・新たな州をアメリカ合衆国に加盟させる、という先例を作ったから」
である。
同時に、これらの条約は、米国のパブリックドメインな土地(市民の共有地)についても先例を作った。
米国最高裁判所は、1851年のStrader対Graham裁判で、
1789年北西部条例が適用可能な北西部において、1789年北西部条例の合憲性を認め、法的権限を認めた。
しかし、ひとたびそれらの州が南北戦争で北部アメリカ合衆国連合の州と認められると、1789年北西部条例をそれら北部の各州へと拡張して適用することは認めなかった
この北西部領域における奴隷制度の禁止は、オハイオ川が、ミシシッピ川からアパラチア山脈までの間にある奴隷制度州と自由州とを地理的に分断していることで、その分断に実効的効果をもたらした。
(これはメイソン=ディクソン線の延長線ともなっている)
これはのちに19世紀に連邦レベルで奴隷制度について政治的対立が起きた時にも、南北戦争まで政治的対立の土台となった。


2 立法の影響

2.1 土地所有の法的基盤の確立
1787年北西部条例は、単純で自由な土地所有についての概念を確立した。この条例においては、土地の所有権とは、無制限に売ったり贈与したりできる永続する権利のことである。
「米国初の契約の自由の保障」と呼ばれている。


2.2 
「州がする領土要求」の廃止と譲渡
Main article: State cession
北西部条例(1787年)の成立により、州が主張していた権利は全て放棄され、米市民が居住していない全ての土地は連邦政府に譲渡され、パブリックドメインな土地(市民の共有地)となった。
これらの領土は議会により直接管理され、最終的には新たに州が設立され米国に加盟することを目標としていた。
北西部条例は、新たな領土が、個々に独立した主権を持つ独立国である独立時の13州の管轄下になるのではなく、一時的とはいえ中央政府により新たな領土が管理されるという先例を作ったことが革命的であった。
連合規約では、「独立時の13州が独立した主権を持つ独立国である」ことが規定されている。
自然界の航行・輸送・連絡ルートについての将来的な使用に関し定義していることで、北西部条例は13植民地の先例をまたもや打ち壊している。
北西部領土以上の将来の領土獲得を予想し、連邦政府の政策を決定しているのだ。
第4条:”ミシシッピ川およびセントローレンスにそそぐ航行可能な河川、および、同じその場所にあるそれらをつなぐ陸路(連水陸路)”は、
民共有の幹線道路であり、税金などをかけることもなく、永遠に無料でなくてはならない。
これらは、そこに住む住民に対してだけでなく、米国市民全員・それから将来米国に加盟する新たな州の住民、に対しても同様にあるべきである。


2.3 新たな州の加盟
この法律の最も重要な本来の目的は、北西部領域に新たな州を作ることを義務としていることである。
少なくとも3州、多くとも5州の州を北西部に設立することになっている。
そしてそれらの州のうちで、ある州の人口がひとたび6万人を超えたら、その州はオリジナルの独立13州と同じ条件で大陸会議に代表議員を送ることが認められる。
北西部領土に作られた最初の州はオハイオ州で、1803年のことである。このとき残りの領域は、インディアナ・テリトリーと呼ばれた。
残りの4州は、インディアナ州イリノイ州ミシガン州ウィスコンシン州である。
その後ミネソタ州となる領域の3分の1も、この北西部領土の一部であった。


2.4 教育
北西部条例は、北西部領土の開拓民および北西部領土の州の最終的な目標の一部として、公立大学設立を呼び掛けた。
「宗教・道徳・知識は良い政府および人類の幸福にとって必要である。学校及び教育手段はずっと奨励されるべきである」と規定している。
1786年に、Manasseh Cutlerは、American pioneersによる北西部への移住に興味を持った。

American pioneers to the Northwest Territory
https://en.wikipedia.org/wiki/American_pioneers_to_the_Northwest_Territory
独立戦争に参加した方々やOhio Company of Associatesオハイオ共同会社のメンバーが参加している。オハイオ共同会社による開拓地マリエッタの設立で、開拓が始まった。
1788年に初めてオハイオ国に移住しMarietta市を設立した。

Ohio Company of Associates
https://en.wikipedia.org/wiki/Ohio_Company_of_Associates
今日では、オハイオ共同会社のメンバーは、非ネイティブの米国人として初めてオハイオ州に移住したと認定されている。

後年、設立に携わったオハイオ共同会社のエージェントとして、Manasseh Cutlerは議会と契約し、
彼と彼の同僚は、債務証書により、Muskingum川の河口の1,500,000エーカー(610,000ヘクタール)の土地を買う契約をした。
Manasseh Cutlerはさらに、北西部領土統治のための北西部条例(1787年)の原案を作り、その原案は最終的にマサチューセッツ代表者(デリゲート)のNathan Daneにより、議会に諮られた。
北西部条例がスムーズに議会を通過するように、Manasseh Cutlerは、わいろ代わりに、キーとなる下院議員をオハイオ共同会社の共同経営者とした。

暫定知事政権の立場を「選挙でえらばれるもの」から「任命されるもの」に変えることで、Manasseh Cutlerは、議会議長Arthur St. Clairに知事のポストをオファーすることができるようになった。
1797年に、マリエッタからの移住者が学校設立のためにHocking川をさかのぼって、Athensアセンズ市に到達した。
Athensアセンズ市は、Chillicotheチリコシー市とマリエッタ市のちょうど中間地点にあったからである。

元々はアメリカンウエスタン大学と1802年に名付けられた大学は結局は開校しなかった。
その代わりに、オハイオ大学が1804年2月18日に公式に開校された。同時に、オハイオ大学の設立が、オハイオ州議会により承認された。
オハイオ州が米連邦に加盟してから11か月後にオハイオ大学が設立されたことになる。
最初の生徒は1809年に入学した。1815年に2人が学士として卒業した。


2.5 領土政府の設立
ある領域における自由人男性の人口が5000人以下の間は、限定された形で政府が存在する。
1人の知事・1人の書記・3人の判事がおり、すべて議会により指名される。
知事は
-3年の任期で指名され、1000エーカーの土地で、自由土地所有freehold estateという土地所有権利を与えられるが-
民兵隊のコマンダーインチーフになり、判事およびその他の公務員を任命する。
そして、その領土に適していると思われる法律を作成し公表するのを手助けする。
書記は、
-4年の任期で指名され、知事と同様に自由土地所有freehold estateという土地所有権利を与えられるが、500エーカーの土地である-
領土の議員により成立した法案を維持し保存し、その領域の公文書を保管し、それら法令や議事録の正本を大陸会議の書記に送る、
責任がある。
3人の判事は、
-品行方正な間は任命され続け、書記と同じ自由土地所有があるが-
知事が、裁判所の判決を下すための法令を作成し通過させるのを、手助けする。

ひとたびその領域の自由人男性居住者の人口が5000人を超えたらば、その郡あるいは町から領土の議会へと送る代議員を選出する権利を得る。
500人の自由人ごとに代議員を一人選出でき、最大25人の代表を選出できる。
その後、大陸会議議会は、領土議会からの代表の人数及び割合を調節する。
少なくとも3年以上米市民であるかあるいは3年以上その地区に居住していないと代議員にはなれない。さらに、その地区に200エーカー以上の土地を所有していないと代議員にはなれない。

これら代議員の任期は2年である。
もしも代議員が死んだり罷免された場合、残りの期間を代わりに務める議員が選出される。


2.6 自然権の確立
北西部条例にある自然権の規定は、米国憲法修正条項の最初の10条であるBill of Rights米国権利章典の、予兆となっている。

北西部条例(1787年)の多くの概念や保障が、米国憲法およびBill of Rights米国権利章典に、組み込まれている。
北西部領土では、種々の法的権利及び財産権が明記され、宗教に対する寛容が明示されている。
そして、「宗教・道徳・知識は善良な政府および人類の幸福のために必要であるから、学校及び教育手段が推奨される」と明言されている。

人身保護令habeas corpusの権利についても、礼拝の自由・過度な罰金の禁止・残虐場刑罰の禁止とともに、北西部条例に書かれている。
陪審裁判」および「遡及的刑罰の禁止」も権利として確認されている。


2.7 奴隷制度の禁止
第6条:北西部領土において、裁判により有罪が宣告され罪に対し刑罰が与えられている場合は除き、奴隷制度および非自発的な強制労働は禁止されている。
ただし、元いた州で労働や使役が合法であり逃亡者がそこから逃げ来た場合、その労働や使役を要求するものに対し合法的に返還され運ばれることになる。

北西部条例は奴隷制度を禁じている。しかし同時に、逃亡奴隷に関する節も明白に存在する。

北西部領域で新たに作られた州のうちの2州で、1820年代に奴隷制度推進派が奴隷制度を合法化しようとしたが、失敗した。
"年季奉公奴隷"法により、奴隷を持ち込むことができた奴隷所有者もいた。売り買いは許可されなかった。

南部の諸州は、この奴隷制度禁止法案に賛成した。なぜなら、南部の諸州は商品作物としてタバコを生産していたのだが、そのタバコ生産において北西部と競争することを望まなかったからである。
タバコ生産は非常に労働集約的であり、奴隷労働をすることによってしか利益を上げられなかったからである。

加えて、1790年には奴隷州が自由州よりも3州多かったため、政治的パワーで考えても、奴隷州の政治力は、単に、自由州と均衡するだけだったからである。

1865年に成立した憲法修正第13条は米国全土で奴隷制度を禁じており、この第6条の言葉を逐語的に一語一語引用している。


2.8 ネイティブアメリカンのかたへの影響

北西部条例は、2つの部分で、北西部領域におけるネイティブアメリカンのかたについて言及している。
一つ目は、インディアンのかたが放棄したり所有権を失った土地にある郡や町の境界に関するものである。
第8条:犯罪や傷害を防ぐために、北西部領域のすべての領域に、法律が作られ適用される。
そして、民事及び刑事の執行過程において、知事は適切な役所を設置するべきである。
知事は、時々には、北西部におけるインディアンのかたの所有権がなくなった土地を郡や町に編入すべきである。
しかし、これらの変更は、あとで議会によりなされなくてはならない。

二つ目は、インディアンの方々との望ましい関係について記述している。
第3条.宗教・道徳・知識は、善良な政府および人類の幸福のために必要である。学校及び教育は永続的になされるべきである。
最高の誠意がインディアンの方々に対して常に示されるべきである。
彼らの土地及び財産は、彼らの同意なくして取り上げられることがあってはならない。
議会により承認された合法的な戦争の場合を除いては、彼らの財産・権利・自由が侵略されたり乱されることがあってはならない。
間違えた行いを彼らに対してしないように、そして、彼らと平和及び友好を維持するように、正義と人道に基づいて設立された法律が時々に応じて何度も作られるべきである。

米革命戦争ののちに署名された条約に、ネイティブアメリカンの方々は署名しなかった。米革命戦争においては、彼らは当事者ではなかったので、この条約でも当事者ではなかった。
オハイオ川北部の土地はネイティブアメリカンの方々が住んでいたのだが、これらの条約ではそれらオハイオ川北部の土地は米国に割譲されていた。
北西インディアン戦争として知られる紛争においては、ショーニー族のBlue Jacketとマイアミ族のLittle Turtleが同盟を組み、白人によるそれらの領域の収容を止めようとした。

インディアン連合との2度の戦闘で800名の兵隊が殺されると、
-インディアンの方々により被った米国最大の敗北である-
ワシントン大統領は、Anthony Wayne将軍を新しい軍の指揮官にした。結果、インディアン連合を打ち破り、ヨーロッパ系アメリカ人がこの地に引き続いて移住することが可能となった。